宮城県白石市福岡蔵本字愛宕山…田村家墓所内

 

田村清顕は伊達政宗の正室愛姫の父で、福島三春城を本拠城と

して、奥羽の戦国大名の一人として田村氏の全盛時代を現出した。

清顕は、葦名氏や佐竹氏の大勢力に囲まれ、状況の変化に応じながら独立を維持していたが、天正2年(1574)、葦名氏と白河氏、佐竹氏の和議が成立したことによって、葦名、二階堂、石川、白河、岩城氏らの連合がなり、清顕の周りは敵ばかりとなってしまった。

このような不利な状況の中、清顕は活発に軍事行動を行い、天正4年(1575)には安積地方を傘下に収め、安積に出兵してきた葦名氏を撃退、背後から田村領に攻め込んだ岩城氏も撃退した。さらに、天正5年(1576)には白河城を陥落させ、あわせて白河、佐竹勢力下の諸城を攻略して、佐竹義重を敗退させた。

天正7年(1579)冬、田村清顕の息女愛姫が伊達輝宗の嫡子政宗のもとへ輿入れをし、この伊達と田村の婚姻の成立によって、伊達、田村氏連合と佐竹、葦名、白河、二階堂、石川、岩城氏らの連合勢力との対立関係は決定的となった。

しかし、田村氏は南奥羽においては四面楚歌の状態で、葦名、二階堂、白河などの連合勢力から押し込まれ始め、天正11年(1583)ころから、田村氏に属していた大内定綱が、二本松畠山氏を後楯として清顕と対立し始めた。以後、清顕と大内定綱の間で合戦が繰り返され、田村勢は戦うたびにことごとく大内方に敗れた。相次ぐ大敗に、清顕は「今は田村の運命窮りぬ」と敵中に駆け入ろうとまでしたと云う。

大内氏は完全に田村氏から独立し、東安達は大内氏の支配するところとなり、これに乗じた岩城氏、葦名氏らは田村領をうかがう様子をみせ始めた。窮地に陥った清顕は伊達政宗に塩松攻めを依頼した。これに対し、伊達政宗は、伊達氏に臣従する旨を申し入れながら葦名氏に通じた大内定綱に対しただちに兵を起こした。

政宗は大内勢の篭る小手森城を攻め、大内勢を残らずなで斬りにするというすさまじさを見せた。これに震え上がった定綱は小浜城を捨てて二本松に走り、塩松はすべて伊達方の手に帰した。

天正14年(1586)10月、男子がなかった清顕は、政宗に男子が誕生したら田村の家嗣とすべしと遺言を残し急死した。しかしその後田村家中は、伊達派と相馬派に二分され、これにより田村地方の支配をめぐり、伊達と相馬は対立関係となった。

しかし結局、政宗が三春城に入り、清顕の甥を田村氏の名代とし、相馬勢力を一掃し、田村家中と田村領は政治的にひとまず安定をみた。しかし、田村領は実質的に伊達領となり、田村氏は大名としての自立性を失うことになった。

翌天正17年(1589)6月、政宗は葦名義広と会津摺上原に戦って大勝し葦名氏は滅亡、その後、政宗は二階堂氏を討ち、常陸佐竹領への侵攻を企てた。しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原征伐の軍を発し、奥羽の諸将にも参陣、臣従を迫ってきた。政宗は結局、常陸佐竹領への出馬を取りやめ小田原に参陣した。

田村氏や、白河結城氏、石川氏らは、伊達氏に服属しながらもなお独自の領国支配を行っており、小田原参陣を望んだ。しかし、政宗は白河結城、石川、田村氏らの参陣を差し控えさせ、その結果、小田原北条氏没落後に実施された「奥州仕置」によって、田村、白河結城、石川氏らは小田原不参を理由に改易され、所領および居城は没収された。

改易された田村宗顕以下の田村家中を、政宗は米沢に招こうとつとめたが、田村家中は政宗に裏切られたという憤りをもっていたことから、その多くは新たに会津の大名となった蒲生氏のもとに去った。田村宗顕は、その後政宗の保護下にあったが早逝し、その子の定廣は、伊達政宗の乳母だった少納言喜多の名跡を継ぎ片倉金兵衛と改名し、白石に身を寄せていた真田幸村の遺児の阿菖蒲を娶り、3百石の仙台藩士となった。

田村氏は一時断絶したが、政宗正室の愛姫の強い願いもあり、伊達政宗の孫宗良が、岩沼3万石を与えられて田村右京を名乗り再興、のち一関に移り子孫は一関藩主として明治維新を迎えた。

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