宮城県白石市福岡蔵本字愛宕山…田村家墓所内

 

白石市福岡愛宕山の「田村家墓所」内に、真田幸村五女の阿菖蒲の墓とともに幸村の墓石が残る。

真田幸村は本名は信繁(のぶしげ)、永禄10年(1567)真田昌幸の次男として生まれた。天正3年(1575)信繁が9歳の時、真田氏の主家の武田勝頼が、長篠の戦いで織田、徳川連合軍に敗北、天正10年(1582)3月に武田氏は滅亡した。真田氏は織田信長に恭順、所領を安堵された。

しかし、信長が本能寺の変で討たれると、真田氏は所領を守るために上杉、北条、徳川など周辺の諸大名の傘下を渡り歩き、信繁は人質として諸大名の下を転々とし、最終的には秀吉の傘下に入り、秀吉の下に留まり、後に大谷吉継の娘を正妻に迎えた。

秀吉の死後、五大老の徳川家康が会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとこれに従ったが、石田三成らが挙兵すると父と共に西軍に加勢し、東軍に付いた兄信之とは袂を分かった。昌幸と信繁は居城上田城に籠り、中山道を進んできた東軍の徳川秀忠軍を上田城にて迎え撃ち、これを守りきった。このため徳川秀忠は、主戦場となった関ヶ原での決戦に間に合わなかった。

戦後、昌幸と信繁は、信之の取り成しもあり、紀伊の九度山に配流され、この地で父昌幸は没した。慶長19年(1614)「方広寺事件」をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化すると、信繁は大阪の要請に応じて旧臣たちとともに大坂城に入城した。

慶長19年(1614年)に始まる大坂冬の陣では、大坂城の弱点であった三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる三日月形の出城を築き、鉄砲隊を用いて徳川方を挑発し先方隊に大打撃をあたえた。しかし、冬の陣の和議が結ばれると、この真田丸は真っ先に取り壊されてしまった。

翌年の大坂夏の陣では、道明寺の戦いにおいて、伊達政宗隊の先鋒を銃撃戦の末に一時的には後退させた。しかし、豊臣勢の主だった武将は次々と討死し、信繁は豊臣秀頼自身の出陣を求めたが、側近衆や母の淀君に阻まれた。信繁は毛利勝永と共に作戦を立て、豊臣方右翼として真田軍、毛利勝永軍を左翼として四天王寺、茶臼山付近に陣を敷き、射撃戦と突撃を繰り返し家康の本陣を孤立させ、明石全登の軽騎兵団を迂回させ家康本陣を横撃させるというものだったと云う。しかしこの作戦は、指揮の乱れなど寄り合い所帯の弱点を露呈し瓦解した。

このため信繁は、正面から徳川家康の本陣めがけて決死の突撃を敢行し、毛利勝永勢、明石全登勢も奮闘し家康本営に肉薄した。真田勢は越前松平勢を突破し、徳川勢の隙を突き家康の本陣まで攻め込み家康旗本勢を蹴散らし、家康は一時は自害を覚悟したほどだったと云う。しかし、多勢に無勢、ついに四天王寺付近で討ち死にした。

この地に伝えられる話によれば、大阪城の落城と自分の最後を覚悟した信繁は、道明寺の戦いで戦った伊達勢の片倉重長を知勇兼備の将と見込み、阿梅、阿菖蒲ら子弟の養育を託したと云う。また一説には、道明寺の戦いで奮戦する重長を見込んだ信繁が、この将ならばと、片倉の陣に矢文を送り於梅との婚姻の儀を申し入れたとも伝えられる。

片倉重長は幸村の遺児の阿梅、阿菖蒲たちを、白石城二の丸でひそかに養育し、於梅は後に重長の後室になり、阿菖蒲は田村氏の後裔定廣の室となった。

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