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宮城県亘理町龍円寺前

慶月院は、茂庭綱元と、豊臣秀吉の愛妾であった香の前の娘として生まれ、名前は津多であったと云う。香の前を巡っては、茂庭綱元が秀吉から拝領したことが伊達政宗の怒りをかい、綱元は一時伊達家を出奔し、その後帰参したときに、政宗に香の前を差し出したとの話もあり、津多は政宗の落胤ではないかという説もある。

津多は長じて、仙台藩の宿老で船岡城主の原田宗資の妻となり、宗輔を生んだが、宗輔が5歳、津多が26歳の時に夫と死別した。その後は慶月院と名乗り、幼くして当主となった宗輔を育てながら原田家を守った。

原田甲斐宗輔は、寛文3年(1663)家老に就任、四代藩主伊達綱村の就任に伴い、その後見となった綱村の大叔父の伊達兵部宗勝が仙台藩の実権を掌握した。原田は宗勝と共に藩権力の集権化を行い、これまでの地方知行制を主張する伊達安芸宗重らと対立した。

寛文11年3月(1671)、これらの騒動を解決するために、大老酒井忠清邸に宗輔らが召喚され、宗輔はその場で伊達安芸に斬りかかり斬殺した。自身も伊達安芸派の柴田外記と斬りあい死亡し、柴田外記もまた死亡した。 この寛文事件により原田家は処罰され、その塁は慶月院にも及び、その身は亘理伊達氏に預けられた。

我が子宗輔の正義を信じる慶月院は、「我が子が何の不義ぞ」と舌を噛み切って死のうとしたが、高齢で歯がなかったため果たせず、その後50余日の間食を絶ち、寛文11年(1671)7月、亘理伊達屋敷で絶食死したと云われている。74歳であった。

当時は、逆臣に連なるものとして正式に弔いもできないため内密に葬られ、墓石は立てられず、この自然石を墓印にしたものと思われる。また左側の地蔵尊は、その後供養として立てられたものと伝えられる。

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