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宮城県亘理町旭山…称名寺

承応2年(1653)5月、亘理伊達氏二代伊達宗実は、荒浜の鳥の海で狩猟を行い、その後宴席を設けていた。その席に酒気を帯びた三人の狼藉者が闖入し、宗実の小姓だった柴田彦兵衛は、そのうちの一人をやむなく斬り捨てた。

この狼藉者は最上藩の足軽で、荒浜にあった最上藩の米倉の番人だった。最上藩主松平清良は徳川一門であることをかさに、下手人を成敗せよと強硬であり、仙台本藩もまた幕府をはばかり、これを亘理伊達氏に要請してきた。

宗実は、「彦兵衛は、自分の下知に従ったまでで罪はない。罰するなら己を罰せよ」と聞かず、他国への出奔を決意するまでになった。 彦兵衛の父常弘は、難が主人に及ぶのを恐れ、この称名寺において、「作法は我にならえ」と範を示し、親子とも切腹して果てたという。彦兵衛は16歳だったという。

 

・果学院の墓
果学院は、亘理伊達二代宗実の生母で、俗名を「宏(ひろ)」といい、常弘の姉、彦兵衛の伯母にあたる。