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宮城県亘理町泉ヶ入…大雄寺

  小堤城は、現在の大雄寺境内一帯の丘陵地に築かれていた。城の規模は、小規模な単郭式の縄張りを持つ城で、南寄りに一段高くなっている場所は、その後、伊達成実の御霊屋が建てられ、亘理伊達氏歴代墓地となっている。現在、土塁が一部残ってはいるものの、城としての遺構はあまり見られない。 乾元年間(1302頃)武石氏によって築かれたとするが、詳細は定かではない。亘理氏は、文治5年(1189)の奥州合戦で功を挙げた千葉常胤の一族で、下総国千葉郡武石郷の在地領主だった六代武石宗胤が亘理へ下向し、小堤城を居館とした。その後南北朝期には南朝方として戦い、武石高広は、延元2年(1337)北畠顕家に従って上洛し、足利尊氏の軍と戦い壮烈な戦死を遂げた。延元4年(1339)、高広の跡を継いだ七代武石広胤は、足利尊氏より亘理、伊具、宇多三郡の所領を安堵され、以降亘理氏を称する様になった。 亘理氏は、伊達、相馬、国分との間で勢力拡大をはかるが、次第に伊達氏の麾下に属するようになり、天文年間(1532~55)に伊達氏より嗣子を迎え、その後は伊達氏一族として伊達軍団の主力として武功を挙げ勢力を拡大していった。 亘理氏はその後天正18年(1590)、遠田郡涌谷城へ移封となり、小堤城の地には、慶長9年(1604)伊達成実によって大雄寺が建立され、亘理伊達氏累代の御霊屋が祀られて今日に至っている。