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 宮城県柴田町船岡西一丁目

  白鳥神社は、元禄12年(1699)、船岡館主柴田源四郎により、船岡城の山頂に祀られたもので、後に明治8年(1875)、村社となり、明治12年(1879)現在地に移った。しかし、この地にはそれ以前より伝承があり、白鳥に対する信仰心が強い。 伝説によれば日本武尊(やまとたける)が東征の折り、一時この地に館を置き妻子をもうけた。後に単身都に帰還した日本武尊を追った妻子は 、途中で力尽き白鳥と化したという。また日本武尊自身、死して白鳥と化したとも伝えられ、白鳥信仰は日本武尊の信仰と関わりが深いと思われる。 藩政期においても、伊達家中ではこの地で狩を行う際には、白鳥を捕らえることは禁じられていたという。 明治元年(1868)、戊辰戦争に敗れた仙台領に、薩摩長州軍を中心とした官軍が進駐してきた。この地にも官軍が進出し、勝利に奢ったその行いは目に余るものがあった。特に、この地の白鳥を多く捕殺することは、白鳥信仰を持つこの地の人々には耐え難いことだった。 幾度か白鳥の捕殺をやめる様に官軍に申し入れをしたがそれが止むことはなく、ついに白鳥事件が起こった。白鳥の捕殺の場に居合わせた柴田家中四名の内の一人が白鳥を守ろうと、官軍の兵士に向かって発砲した。 その後この事件は仙台鎮撫使の知るところとなり、事件に関与した柴田家中の者たちは処刑され、事件の責任を取って柴田家の十四代当主柴田意広も切腹した。事件後、柴田家臣の多くが、苦悩の選択のなか、現在の北海道伊達市に移住をし、新天地での新しいあゆみを始めた。