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宮城県村田町村田字迫

  村田城は、現在の村田町役場の背後にある丘陵に築かれ、現在は城山公園として整備されている。 丘陵山頂部に本丸を置き、南東に一段下がって二の丸、本丸東側に三の丸、北側に帯曲輪と堀切を隔てて出丸が設けられた縄張りとなっている。本丸西側には櫓台が築かれ、その外側は空堀と土塁を巡らしている。 村田城は、小山九郎業朝が嘉吉年間(1441-1444)に下野から村田に移り住み、村田氏を称して伊達家臣となり築いたのが始まりといわれている。 六代村田近重は、伊達稙宗と晴宗父子間で争われた天文の乱では晴宗側についたが、彼には男子が無く、稙宗の九男宗殖を養子として迎えた。宗殖は天正19年(1591)に奥州仕置きにより領地を没収され、桃生郡長井に移った。 江戸期に入り、慶長10年(1605)までは御蔵入地だったが、その後慶長17年(1612)までは石川昭光領となった。 慶長18年(1613)、政宗の七男宗高が7歳で村田館主となり3万石を領したが、疱瘡にかかり若くして没した。 その後、奥山氏、田村氏、大松沢氏と領主が変わり、貞享元年(1684)芝多氏が移り住んで以降は、慶応2年(1866)、芝多氏が加美郡谷地森に所替えになるまでの184年間ここを居館とした。その後、片平氏が配されたが、まもなく明治維新を迎え、村田館も解体された。