スポンサーリンク

宮城県村田町大字村田字大槻下…龍島院

  龍島院境内には、名君と称えられる村田城主、伊達宗高の御廟がある。宗高は、伊達政宗の七男で、慶長18年(1613)に七歳の時に、柴田・刈田の3万石を領し、村田城を居館とした。 しかし、寛永3年(1626)、京都二条の要法寺で天然痘に罹り、20才の若さで客死した。 元和9年(1623)の春に刈田岳は噴火し、大きな被害を近隣に及ぼし、人々を恐怖に陥れた。このとき政宗は、中国人の易者王翼に指示を仰ぎ、祈祷によって噴火を鎮めるように宗高に命じた。 宗高は、寛永元年(1624)10月、王翼とともに刈田岳に登って、火口近くに祭壇を設け、節の付いた青竹に自分の息を吹き込み、そこに埋めた。このことは、宗高の生命を捧げるということを意味するものだった。この誠意が天に通じたのか、祈祷が終わる頃には、噴煙活動は次第に鎮まり、夜になり全く止んでしまったといわれている。 この若き城主の崇高な行為は、領民の心を打ち、やがて神のごとく敬慕されるようになったという。宗高は若くして没したが、この地では今も名君として語り継がれている。