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宮城県村田町村田字東…願勝寺境内

  村田町の商家で大沼歳三の一人娘であった美都は、ふとしたことで町内の若い侍と相思相愛の仲となった。しかし当時は、武士と商人の娘との婚姻は許されなかった。 二人は人目をしのび逢瀬を重ねたが、双方の両親はこれを許さず、二人は無残にも引き裂かれた。二人はこの世で夫婦になれぬならと覚悟を決め、この願勝寺の本堂にかけ込み、白装束にあらため、若侍は美都の胸をさし、そして自ずからの喉を突いて返らぬ旅路へ 旅立った。 親達は、二人の心根を哀れに思い、その仲を許し懇ろに葬った。願勝寺の住職もこれを憐れみ、二人を仏弟子とした。侍の名ははばかるところがあり出せなかったために、修業中の僧である「小所化」とし、大沼小所化、美都と石に刻み、恋塚を築いたという。   ・雙縁塔 この碑は天明の飢饉の死者を供養するために、文化13年(1816)に建立されたもの。「雙縁」とは、有縁、無縁双方の人々を供養する意味がある。 天明の飢饉は7年間も続き、中でも天明3年(1763)の水害凶作は最も悲惨なものだった。金谷の荒神社境内の用水掘は数百人の餓死者の骨で埋まり、姥ヶ懐では20戸あった家が僅か7戸に減り、菅生余柄の願勝寺の檀家11戸の内10戸が死滅、入北向地区は12戸が全滅した。 人々は食べられるものは何でも口にし、飢えに耐えかねて、食べてはならない藤の実を食べて一家が死滅したところもあった。その内疫病が流行し、死者の数はさらに増大した。天明の飢饉の7年間の間に、この地域では4割の戸数が減少し、人口は半数になったという。