宮城県川崎町前川字館山西

 

別名:川崎要害、臥牛城、前川城

慶長15年(1610)砂金(いさご)実常によって築城されたという。元禄15年(1702)砂金氏は継嗣がなく断絶し、伊達村興が4千石で城主となった。その後、享保7年(1722)伊達綱宗の孫の村詮が2千石で入城し、川崎伊達氏が明治維新まで居住した。

砂金氏は、南北朝期に浪士として奥州に来たり、砂金邑の守護人となり、文明年中(1469~1486)伊達家に仕えた。天正2年(1574)までは砂金邑で豪族として勢力を張った。その後、砂金城より前川中ノ内城に移り、さらに十一代砂金実常は伊達一族となり、川崎城を築き移った。

この地は笹谷越出羽街道が通る交通の要所になっており、対最上氏、対大崎氏の境目の城であった。砂金氏の築城、移住は、伊達氏の命によるものと推測できる。

城の規模は、平場三ヶ所、土塁、空壕、枡形、壇状遺構などが高さ60mの東西に延びる丘陵の東端部頂上に、東西南北200mに及ぶ大型の城郭が構えられ、東西130m、南北100mほどの長方形平場を本丸とし、東、南、西の三面に土塁、その外側に空壕を築き、二重の防御が施されている。北面は垂直な断崖となって天然の要害となっている。その南山腹には数百mにわたり城郭を取巻く東西に延びる空壕があり、特筆すべき遺構で、中世連郭式山城である。

現在本丸跡は城山公園として整備され、二の丸は小学校となっている。本丸や二の丸周辺の地形は良く保たれており、土塁や堀切などの遺構も見られる。

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