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宮城県川崎町大字小野…竜雲寺

  梁川庄八は、伊達家の家臣で、慶長年間(1596~1615)の末期、主君の意に反し親の仇を討ったために主君の怒りに触れ出奔し、川崎の寄る辺を頼って隠れ住んでいた。

この頃、川崎街道には狐狸妖怪と思われる大入道が夜な夜な現れ、里人や旅人を襲っては金品を奪うなどして悩ましていた。これを聞いた庄八はその難儀を救おうと、夜が更けるのを待ち、大入道が現れるという龍雲寺付近にやってきた。龍雲寺の門前にさしかかると、雲をつくような大入道があらわれ襲ってきた。庄八は得意の居合いで、それを一刀のもとに斬り倒した。

翌朝確かめてみると、路傍の石地蔵の右肩が袈裟懸けに削げていた。その後、大入道があらわれることはなくなり、この石地蔵は「袈裟懸け地蔵」と呼ばれるようになった。

梁川庄八が実在の人物かどうかは定かではないが、寛文事件までの流れの中で、仙台藩を出奔した仙台藩士がモデルになっているのかもしれない。

講談で盛んに取り上げられ、梁川庄八の「化け地蔵退治」は人気演目の内の一つだった。そのためか、同類の伝説を伝える石地蔵が県内に3ヶ所あるという。

講談によれば、狐狸妖怪を退治した庄八は帰参がかなうかに思えたが、茂庭周防の讒言によってかなわず、庄八は周防を斬り獄へつながれた。しかし老僕徳兵衛の手引きで脱獄に成功し、その後は奥州を離れ諸国遍歴の旅に出た。

上総東金では危機に瀕した祭礼の素人相撲に介入、さらに安房館山ではさびれた旅籠を立て直す手伝いなど、至る所で善行を重ね、正義の味方の素浪人であったと伝えられる。

また、エノケンの人気映画の「三尺左五平」は、この梁川庄八をモデルにしたとも云う。