宮城県川崎町支倉字宿

 

この地は、現在は支倉の字名がついているが、古くは長谷倉とか馳倉と呼ばれ、さらにそれ以前は新羅だったと云う。

後三年の役の折に、京都の警護にあたっていた新羅三郎義光は、兄の源義家が奥州で苦戦中と聞き、寛治元年(1087)、官許を得ずに奥州に向かった。

その折に、義光は新羅の帰化人37人を率い、20人を槻木の入間田に、17人をこの地に住まわせた。新羅人は優れた製鉄の技術を持っており、砂鉄を精錬して武器を作り、戦役の用に供した。この地のいたるところに今でも金屑が見られる。

それ以来、この地一帯は「新羅の郷」と呼ばれるようになったと伝えられる。

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