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宮城県岩沼市中央

  岩沼は、古くは「武隈の里」として都にも知られていた地で、京の都と多賀城を結ぶ東街道が通っていた。江戸期に入り、街道が整備されると、岩沼は奥州街道と、陸前浜街道が分岐する宿場町として栄えた。また、この地は竹駒明神の門前町として、また伊達氏の要害の地としての鵜ヶ崎城の城下町でもあり、又、竹駒神社の初牛から100日間、仙台藩領中最大の馬市が立てられるなど大いに栄えた。 岩沼が城下町、宿場町として町割りが行われたのは、寛永年間(1624~43)、伊達家の重臣の古内氏がこの地を知行した時と言われ、奥州街道に沿って、北から北足軽町、北町、中町、南町、新町、南足軽町が並んでいた。町家は北町、中町、南町、新町の両側に並び、その西側から鵜ヶ崎城にかけて武家屋敷となっていた。   ・藻草巻騒動 この地では、時折、鵜ヶ崎城の堀をさらう「藻草巻」が行われていた。それは勇壮なもので、ほら貝の音とともに、一斉に水を抜いた堀に飛び込み堀をさらうものだった。戊辰戦争の少し前に、南部藩主が岩沼の本陣に宿泊したとき、たまたまその日はこの藻草巻の前日だった。翌日早朝、ほら貝の音が響き渡り、これにおどろいた南部藩の一行は藩主の周りを固め、「馬を引けー」「槍を持てー」と入り乱れての大騒ぎになった。あとで、これが「藻草巻」だとわかり、南部藩一行は安心し大笑いになったと今に伝える。