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宮城県名取市高館熊野堂字岩口上

  別名:熊野新宮社 熊野神社は、境内に新宮寺文殊堂という寺院があり、神仏混淆の時代の名残を残している。この神社は、かつては、青森県の恐山などと並び、東北地方の一大聖地として扱われており、現在でも、地元を初め、他県からの参詣者も訪れている。 「吾妻鏡」によると、名取熊野三社のの成立に関して、名取老女の話が有名。 鳥羽院の頃、名取老女と呼ばれ、篤く紀州の熊野権現を信仰している者がいた。ある日、一人の山伏が老女をたずねて来て言うには、「私は陸奥国の松島に旅をしようとして、熊野権現へ参詣し、神前で通夜したところ、夢の中になぎの葉をもった衣冠正しい老人が現れ、『奥州へ行くのなら名取老女をたずねなさい。この人は信心深く、若いときは時々参詣してくれたが、今では年老いてそれも出来なくなった。しかし日毎に我を参拝していることは感心なので、この一葉を届けてほしい』とつげた。目をさますと虫食いのような一首の歌が書いてあり、そのなぎの葉を老女に渡した。 老女が見ると、「道遠し年もいつしか老けにけり、思いおこせよ我もわすれじ」と書いてあった。老女は感涙にむせび、「年老いて熊野に参詣できないのがあまりに悲しいので、小社をたて熊野権現をまつり、毎日拝んでいたのです。」と山伏を小社に案内した。このことから老女の徳が広まり、保安年間(1120~24)に熊野三社の宮居をたてることができた。 文治5年(810)前、源頼朝は奥羽東征の際、武運を祈願し平泉との戦いに勝利し、その帰途、本殿前に松樹を手植えし、亦自筆の判物が保存されている。 その後伊達植宗以来歴代の伊達氏から保護を受け、神社の祭祀、維持管理に至るまで統べて仙台藩にて行われた。