宮城県栗原市一迫字北沢平林南

 

姫松館の館主は、平泉藤原氏の重臣の井ノ山雅楽之丞と伝えられている。井ノ山雅楽之丞は近郷の諸館を統率していたといわれている。館跡から、「古剣」や「陣笠」、「古武具」の類が出土したと伝えられているが、遺物は一つも残っていない。一説には大崎氏の家臣、湯山雅楽允の居館とも言われている。

郭は標高約90m、比高60mの丘陵上の、西郭、中郭、東郭の三つからなっており、その規模は東西約600m、南北約500mにも及び、三つの郭は、それぞれ三方に張り出した尾根上に配されている。南は一迫川に面した険しい断崖で、北、東は大きな沢で画され、それぞれの郭は二重の空堀と土塁により画されている。規模は壮大で、堅固に造られた壮大な連郭式山城である。

文治6年(1190)、平泉藤原氏が滅亡後、藤原の家臣だった大河兼任が叛乱を起こした際これを助け、この館に拠り千葉新助、足利上総前司、小山五郎らの鎌倉御家人を迎え撃って敗れたとされている。

この館には、落城の折に、城の姫君が、傘をさして崖の上から飛び降り逃れたとか、「朝日さし、夕焼け映ゆる松の下、黄金億々、漆万杯」の歌が伝わり、沢山の黄金と漆が埋蔵されているとかの伝説もある。

また、この館にはかつて根本が一本の二本の松の名木があり、この松は昔「姫松」と呼ばれており、この地の古称「姫松庄」の由来にもなった。

伊達氏の時代には、この地は、政宗から招かれた、白河結城氏が領しており、その関係で、城跡には白河結城氏の祖で、南朝の雄の結城宗広の顕彰碑が建っている。

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