宮城県仙台市太白区根岸町

 

現在の宮沢橋の位置には、江戸時代の宝暦のころ(1751~1763)に渡し場が設けらていたが、文政のころ(1818~1829)に廃止された。しかし、幕末に山形藩の隠密の林藤助が仙台城下に潜入していたが、故あって藤助は山形藩から命を狙われる身となった。縁故があった根岸の宗禅寺にかくまわれ、落ち着いてから和尚は渡し舟の許可をとってやり舟を買い預け、文久2年(1862)この渡しが再開された。渡し賃は江戸時代に3文、明治時代に3厘であった。

藤助から数えて三代目の林八五郎が明治15年(1882)に木橋を作った。橋は長さ73メートルで、幅30~40cmほどの板を2枚並べた粗末な橋で、渡し賃は3厘、後に1銭であった。渡し賃を払わず、橋の真ん中まで走り、捕まる前に川に飛び込むのが当時の子供たちの間で流行ったという。また中には自転車や馬で渡る者もおり、風の強い日には川に落ちる者もいた。橋は台風や水害でしょっちゅう流失し、その度に架設を繰り返したという。

 

・鎧淵

現在の宮沢橋の下流、武道館があるあたりの河原一帯を鎧淵と呼ぶ。

源頼朝の鎌倉軍は、平泉を討つため大軍で東街道を北上し、この鎧淵で戦いが行われた。平泉側は現在の榴ヶ岡にあったと伝えられる鞭舘に本陣を敷き、広瀬川を前線として鎌倉軍を迎え撃った。このとき住民もかり出され、鎧淵に乱杭を打ち、川底には大網を張り巡らして防塁を築き、鎌倉軍の渡河に備えたという。

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