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宮城県仙台市太白区秋保町湯元字薬師

中世戦国時代、秋保郷は小領主の秋保氏が支配していた。秋保氏は平清盛の長男で小松内大臣重盛の子孫といわれ、平家の落人伝説が秋保には伝えられる。

この落人に従って来た者の内の子孫が、秋保温泉の湯守として秋保の温泉を守ってきたと伝えられている。現在のホテル「佐勘」の祖先がそれで、伊達政宗が仙台に移ってきてからは、湯守とともに、肝入役、山守役を命じられた。

文禄2年(1592)火災に見舞われ、湯守の屋敷も湯宿も全焼し、当時火元には再建のための御料木材を払い下げないという規則があったが、領主の湯浴御殿であるということで特別に許可され再建された。その際、湯守の佐藤勘三郎は再度の火災を恐れ、紀州高野山に祈願し「貧女の一灯」と崇められた聖火を火縄に託して、48日間道中苦労を重ねて、持ち帰った。この火は新築された炉端に移され以来今日まで400年もの長い間、昼夜をわかたず燃え続けている。

元和元年(1615)大阪夏の陣の際、勘三郎は伊達家の家臣として出陣、武勲の恩賞として甲胄等を拝領し、伊達藩初期から代々湯元村の肝入役を継承、また温泉宿の草分けとして湯守役を勤めた。やがて源泉付近に宿泊所を設け入湯者から湯銭を取るようになり、庶民にも広く親しまれる温泉として賑わいをみせるようになった。

当初、湯守の佐藤家(佐勘)だけて宿屋をしていたが、その後佐藤家の屋敷の一隅を借りて湯治客相手に商いをしていた、岩沼町の源助(岩沼屋の祖)が一部屋敷を譲りうけ旅籠屋を開設し、 また、水戸の浪人惣右エ門(水戸屋の祖)も佐藤家にわらじを脱ぎ、のちに佐藤家の娘と縁組をし宿屋を開設することになる。