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宮城県仙台市太白区秋保町長袋水上北…大雲寺

  秋保氏は、平家が壇ノ浦で滅亡した折に、平清盛の子重盛「小松内府」をその祖とする平長基がこの地に落ちのび、秋保氏の祖となったと伝えられている。秋保氏は、馬場地区に馬場氏、境野、新川地区に境野氏をそれぞれ分家して配置し、本家秋保氏と併せ秋保御三家とよばれるようになり一族でこの地方を支配した。 戦国期には伊達氏に属し、伊達政宗が岩出山に本拠を移す頃には、外様家臣の格式から家格御一家としての格式になり、山形最上氏に対する二口峠の境界警備という重責を担った。関ヶ原の合戦後に政宗が仙台へと城下を移すと、秋保郷は仙台藩の直轄領となり、これに伴い秋保氏は刈田郡小村崎村へと所替えを命じられ秋保をはなれた。しかしほどなく帰郷を許され、七代藩主伊達重村のときには、秋保氏二十三代秋保氏盛が奉行に抜擢された。 氏盛は長館を居館として、家中屋敷と合わせ本格的な整備を行った。現在の舘部落は、この時原形ができ、秋保家主従が軒を連ねるようになった。 秋保氏はその後明治維新までこの地域を治め、秋保氏と秋保郷の結びつきは極めて強く、町内の史跡、社寺、町並みなどその多くが秋保氏関連のものとなっている。