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宮城県仙台市太白区茂ヶ崎一丁目

室町時代の初めに、粟野氏がはじめて城を築いたと言われている。粟野藤三郎駿河守重直が康永元年(1342)足利尊氏により名取郡北方三十三郷をさずかり、同2年(1343)に名取郡の茂ヶ崎城に居を構え 、長町北目と沖野にもそれぞれ、出城を構築した。五代大膳亮忠重の時に、名取郡北目城に居を移した。

地域の方の話では、茂ヶ崎城の本丸は、この標柱の場所ではなく、この地域の最高部の、仙台放送の鉄塔の辺りだったという。

その後、六代国定は、文明年間(1469~1486)に石堂頼平に従って伊達成宗と争ったが、同14年(1482)伊達家に服属する。これより粟野氏は国分氏配下から伊達氏配下として臣従することになる。

九代重国も大膳亮を称し、名取郡三十三郷の旗頭となる豪勇の士であったが、天正19年(1591)、伊達政宗に抗したため録を失い、北目城にて没した。

この地域は、伊達政宗が仙台城の候補地の一つとして上げた所で、瑞鳳殿がある経ヶ峰から山続きの天険の地になっている。この地の南側には山の端に沿うように、かつての東街道が通り、伊達政宗はこの地域を仙台城外郭の防衛線と考えていたらしく、鹿除けの土手の名目で、長大な土塁を築いている。

また、徳川を仮想敵とした作戦書の中にも、本陣を経ヶ峰に置き抗戦するとあったと伝えられている。 そのためか仙台城から大年寺山にいたる山間道は一般人の通行が禁止されていた。地元に伝わる話では、大年寺惣門付近に林の中を抜ける小道があり、これは攻め手にさとられることなく兵を移動するための軍用道で、これを常に確保しておくために山守がおかれたという。

元禄10年(1697)に仙台藩四代藩主伊達綱村が鉄牛和尚を招きこの地に黄檗宗の禅寺、 大年寺を建立し、綱村以降の仙台藩主の菩提寺になった。