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宮城県仙台市太白区郡山四丁目

  室町時代の初めに、粟野藤三郎駿河守重直は名取郡北方三十三郷をさずかり、茂ヶ崎城に居を構え、長町北目と沖野にもそれぞれ、出城を構築した。 五代大膳亮忠重の時に、北目城に居を移した。 東西約370m、南北約280mの平城。この城の一角には郡山遺跡があり、この時期には東街道はこの地を通っていたのかもしれない。調査の結果からすると、この城は幅10から14m、深さ3m以上の複雑な構造の堀で囲まれていたと云う。現在も「館ノ内」「出丸」「矢口」「矢来」といった地名が存在する。 その後6代国定の文明年間(1469~1486)に石堂頼平に従い伊達成宗と争ったが同14年(1482)伊達家に服属する。これより国分氏から伊達氏配下として臣従することになる。 しかし、9代大膳亮重国は名取郡三十三郷の旗頭となる豪勇の士であったが、大崎葛西一揆の際に、天正19年(1591)、北目城に篭り伊達政宗に抗戦したが政宗に攻略された。その弟も沖野城に篭り抗戦したが、これも抗しきれず落城し粟野氏は滅亡した。粟野大膳の墓地は、長町の宗禅寺にあるという。 関ヶ原の戦いの折には、伊達政宗は本城の岩出山城からこの地に駒を進め本陣をおき、白石城攻めを指揮したという。