宮城県仙台市若林区南小泉一丁目

 

七郷堀は、広瀬川の愛宕堰から取水され、現在の若林区役所前までの1.6Kmを流れる堀。取水量は広瀬川水系では随一の量。堀は堰場 、舟丁、南染師町、文化町と流れ、区役所前で仙台堀と高砂堀に分れる。この分岐点は、その昔「水配り(みくまり)」と呼ばれていた。

伊達政宗には、その居城移転に合わせて付いてまわった様々な職人衆がおり、その中には染師が6名含まれていた。当初、その染師は霊屋下に居し、広瀬川の水を利用して染物を行っていた。七郷堀ができると、二代藩主忠宗は、染師達を、七郷堀の水を利用するため、集団で現在の南染師町に移り住ませた。

七郷堀沿いに染職人の町が出き、ここで藩の染物生産が行われていた。七郷堀は農業用水、防火用水としても利用されていたが、染物を流れる水でさらしたり、藍染の布を川で洗ったため青い水が流れ、人々は藍染川と呼ぶようになった。

南染師町には、戦前は染物屋が20数軒あり、印半纏、前掛、風呂敷、大漁旗、手拭いなどをそめていた。手拭いは染めてから防染糊が落ちるまで七郷堀に流し、竹竿で振り洗いする。それを一反ずつ乾かす。これらはまるで吹き流しのようであり、夏の風物詩であった。この頃は、南染師町の町民だけでも染物に関連する人々が8割近くおり、印半纏や前掛、風呂敷等の仕立(縫製)、また手拭いをたたみ袋に入れるおかみさん達や、型紙を絹糸で吊る型屋さん、図案を描く下絵屋さんと町中が染物一色で大変活気があった。

広瀬川の取水口には、用水が必要な時期になると農家の人たちが集まり、土嚢を積んで広瀬川を堰止め、堀に水を流した。しかし、その下流約60mのところに六郷堀への取水口があり、七郷堀に水を流すと六郷堀に水を取り入れることが出来なくなり、水利紛争が度々発生した。その後昭和20年代の台風を期に、愛宕堰として統合され、七郷堀と六郷堀の分水堰が設けられ、水利紛争もなくなった。

地元の方の話では、戦前は水量も多く水はきれいで、子ども達の遊び場として格好の場所だったという。堀で泳ぎ、また水門が閉められ、水量が少なくなると、ウナギ、コイ、フナ、ドジョウ、ハヤ、エビ、川ガニなどを捕まえた。夜にはカーバイトを燃やし、モッパという網を出して川をせき止めると魚がいっぱい入ってくる。夜の更けるのも忘れ、怒られながら魚とりしたという。

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