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宮城県仙台市若林区白萩町

  国分尼寺は、聖武天皇が「国分寺、国分尼寺建立の詔」を出し、創建された。陸奥国分尼寺の開基については、藤原鎌足の女で光明皇后の侍嬪であった紅白尼、白紅尼が奥州に降ってこの寺を開いたという説話がある。 国分寺が国家鎮護の祈祷をする寺であるのに対し、国分尼寺は前世の罪障を減除するための霊場とした。水田十町歩、尼僧十人を置くことを定められた。又、歴代の天皇は国司に命じて国分二寺の修理を督励されたが、永暦四年(1080)尼寺が顛倒するも、再興ならず、その後、天台宗に属し、真言宗を兼学したこともあり、慈覚大師が中興したとも伝えられている。 相次ぐ、前九年の役(1051~)、後三年の役(1083)などの争乱により荒廃したが、藤原氏の府を平泉に開くに及び、堂塔伽藍の管理造営をなし、壮麗華美の旧観に復した。 文治5年(1189)源頼朝が平泉藤原氏を滅ぼす戦で、国分寺とともに兵火に罹って堂塔悉く鳥有に帰した。その後、国分第十五代盛氏が領主となり、その子盛重に至って、国分寺、薬師堂とともに国分尼寺の殿堂と観音堂等の修造を行 った。また、仙台藩祖伊達政宗が仙台築城後、国分寺、国分尼寺、その他の諸堂の造営修理を施し、且つ寺禄の寄進等があって寺観悉く旧に復した。 享保七年(1722)伊達五代吉村が四代綱村の冥福を祈るため観音普門品三十三万巻を読誦させ、三年で之を終わったなど歴代藩主の外護もあったが、明治維新の変革でその保護を失い、堂宇は腐朽した。 陸奥国分尼寺(法華減罪之寺)址一帯は、昭和23年(1948)、国史跡に指定された。又仙台市において史跡保護のため、昭和44年(1969)史跡公園化した。