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宮城県仙台市若林区連坊一丁目

栽松院は、仙台藩初代藩主伊達政宗の祖母の久保姫(栽松院)の菩提供養のために、慶長8年(1603)、政宗が建立した位牌寺である。

久保姫は岩城左京太夫重隆の娘で、伊達晴宗の正室で、杉目城(福島市)に住んだので「杉目御前」とも呼ばれた。笑窪のある美人であったと伝えられ、笑窪姫とも呼ばれている。

政宗の祖父の晴宗は、久保姫をみそめ、姫が白河結城家に輿入れする婚礼の行列を襲い略奪したという。岩城重隆は激怒したが、姫からは再三にわたり晴宗を許してほしいと訴えられ、男子のない重隆のため姫に男子が生まれた場合は、その第一子を岩城氏の跡目とすることを条件に和解したと伝えられる。

姫と晴宗は仲睦まじかったようで、11人の子をもうけ、長男の親隆は約束通り岩城氏の養子となり、次男輝宗が伊達家を継いだ。他の子供たちも、当時の名門留守、角田、石川、国分、二階堂、芦名、佐竹氏等の後嗣または妻となった。

政宗は、幼いときに疱瘡を患い、片目を失い、容貌が怪異であったためか、母の義姫から疎んじられ、幼児よりの養育をもっぱら久保姫から受けた。政宗はこのことから祖母の久保姫を終生慕っていたようだ。

晴宗が家督を輝宗にゆずると、久保姫は米沢から福島の杉目城に夫とともに入りここで暮らした。しかし天正18年(1590)、伊達政宗は秀吉の奥州仕置きによって信夫、伊達両郡は没収され蒲生氏郷領となり、伊達政宗は岩出山城に移った。久保姫はこれに伴い、天正19年(1591)、根白石村に移り、晩年をそこで過ごし、文禄3年(1594)に亡くなった。

没後、伊達政宗は晴宗の墓所のある福島の宝積寺から僧能山を招き、屋敷跡に同名の宝積寺を建立した。政宗は度々根白石の宝積寺を詣でたが、遠隔地であったために、仙台入府後、仙台にその菩提寺を建てることを願っていた。仙台城本丸からその適地を求めると、東の高台に、付近を圧する常緑の大樹があり、この木が朝夕に遥拝する上で絶好の目当てとして、この地に久保姫の位牌寺として の栽松院を建立した。

 

・千躰観音堂

およそ1200年前、慈覚大師が陸奥を巡錫の折にこの地方で千躰仏を刻み、青葉山に小堂を建てて祀った。この千躰仏は、村人らの信仰を集め、この地域を千躰ヶ原と呼ぶようになった。この地名が、後に千代と変わり、伊達政宗が千代城を築き、その折に「仙台」と改められた。

久保姫(栽松院)は、観音様を篤く信仰していたため、栽松院は千躰の観音像を復元し、祀った。


※訪問記(2008年7月)

この日、ちょっとした仕事の合間に栽松院を訪れた。市街地の夏は暑いが、山門をくぐり境内に入ると、周囲の木々のせいか、風が心地よい。庫裏に行き、若いご住職に境内内の写真の撮影を頼むと、このようなご時世、最初は警戒されていたようだったが、久保姫の話などをしているうちに、人の良いご住職の素顔がみるみる表れ、久保姫のご位牌まで撮影させていただけることになった。ここに、久保姫のご位牌があることはもちろんわかっていたが、初対面でお願いするのははばかられ、境内の写真だけと思っていたのだが、もちろんご住職のお申し出に、図々しく甘え本堂に上がらせていただいた。久保姫のご位牌は、根白石にもあり、これも同じような形で撮影させていただいており、今に伝わる久保姫の優しさが、ご位牌を通し、その周りの方々にも伝えられているのかもしれないと漠然と思った。 撮影させていただき、ご本尊に手を合わせ、辞そうとするとき、折角だったので、境内で目に止まっていた「猫塚」のことを聞いた。これも親切丁寧にお教えいただいたほかに、わざわざ外に出てきて、「政宗遥拝の樫」の謂れを血の通った言葉でお教えいただき、「千躰観音」「伊藤七十郎の墓」などの案内までしていただいた。ご住職に礼を述べ、山門を出て、本堂に向かって手を合わせると、さっと涼風が吹いた。