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宮城県仙台市若林区保春院前丁

  保春院は、寛永12年(1635)伊達政宗が母の十三回忌にあたり、その菩提を弔うために創建した。翌年の政宗最後の参勤となる江戸出発の2日前に落成を祝った。そしてその年、江戸桜田屋敷にて波乱の生涯をとじる。本堂には政宗が自らつくった母の位牌が今も残されている。 伊達政宗の母である保春院(義姫)は、元和9年(1623)逝去した。出羽の大名最上義守の娘として山形城に生まれ、兄は「出羽の驍将」最上義光である。宿敵である伊達家へ嫁ぎ、伊達輝宗と結婚し、永禄10年(1567)、輝宗との間に男子をもうけた。長子が政宗で、次子が小次郎である。 しかし政宗は5歳の時に疱瘡をわずらい右眼を失明し、そのためか義姫は政宗を疎んじ、弟の竺丸(小次郎)を溺愛したという。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの年、保春院は小次郎に家督を継がせるため、政宗を毒殺しようとしたが、政宗は弟の小次郎を斬り、後顧の憂いを絶って小田原に参陣した。 保春院は、文禄3年(1594)、兄のいる最上家へ身を寄せる。しかし兄義光の死後、家督争いや孫の急逝などで最上家は家中内紛が絶えず、ついに幕府によって改易され、保春院は行き場を失ってしまう。 元和2年(1622)、政宗は行き場をなくした母保春院を仙台に呼び戻した。政宗56歳、母保春院は75歳になっていた。再会をはたした母子は、このとき贈答歌を交わした。 政宗 : あいあいて 心のほとや たらちねの ゆくすゑひさし 千とせふるとも 保春院: 二はより うへしこまつの 木たかくも えたをかさねて いく千世のやと 1年後の元和9年(1623)、出羽の驍将、最上義光の妹、奥羽の独眼龍、伊達政宗の母保春院は、その波乱の人生を終えた。