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宮城県仙台市宮城野区蒲生

  現在の七北田川の河口付近は、古くは鍋沼といわれ、沼を中心とした湿地帯だった。この地には良質の蒲が生い茂っていた。蒲の花粉は、当時は「蒲黄」といわれ、傷の止血剤として利用されていた。この蒲が生い茂っていたことから「蒲生」という地名になったと伝えられている。 七北田川は、当時は、宮城野区の岩切あたりから、多賀城を流れる砂押川に合流し、七ヶ浜町の湊浜に流れていた。寛文10年(1670)、仙台藩は、この地から仙台に米を運び入れるために御舟入堀を計画し、その計画の下に七北田川を砂押川から切り離し、河道を付け替え、蒲生がその河口になった。 蒲生には御蔵場が置かれ、年貢米や塩を仙台城下へ運ぶための重要な米の集積拠点になり、ここから米を、七北田川を舟で仙台城下に運び入れた。 明治に入り、現在の東松島市野蒜に近代港が計画され、石巻の北上河口から岩沼の阿武隈河口まで運河が掘られ、この地の舟入堀もその運河と結ばれ、この地も舟運の拠点になると期待されたが、すでに時代は舟運から鉄道を中心とした陸上運送の時代に入り、この計画は挫折した。 現在、近くに仙台新港が建設され、蒲生地区はその姿を大きく変えつつあるが、蒲生干潟の一部は保護され、七北田川河口部にかつての姿が残る。