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宮城県仙台市宮城野区榴ヶ岡

 平安の昔、菅原道真は、藤原時平の讒言により大宰府へ配流され悲嘆の中でかの地で没した。道真が京の都を去る時に詠んだ「東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」は有名。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛び梅伝説」も有名である。

ところが道真の死後、京には異変が相次ぎ、醍醐天皇の皇子が次々に病死した。さらには朝議中の清涼殿が落雷を受け、朝廷要人に多くの死傷者が出た。これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行った。 清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられた。

天暦元年(947)、京都の北野の地に朝廷によって北野天満宮が建立され、榴岡天満宮は天延二年(974)に山城国に創建された。その後、平将春が陸奥国宇多郡(現在の福島県)に歓請し、宮城県柴田郡川内村、小俵玉手崎(仙台市青葉区東照宮の地)、そして寛文7年(1667)三代藩主伊達網宗により社殿、唐門が造営され、この榴岡に遷座された。

天満宮は火雷の神としてだけではなく、菅原道真が学問に秀でていたということで、学問の神としても崇められ、榴岡の天満宮は仙台の天神様として広く崇敬されている。 境内には多くの歌碑とともに、戊辰戦争の時に、仙台の額兵隊を率いて函館戦争を戦った、星旬太郎の顕彰碑もある。