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宮城県仙台市宮城野区燕沢二丁目…善応寺境内

  この碑は弘安年中(鎌倉時代1278~1287)の建立と言われ、もと燕沢地内の塩釜街道安養寺跡にあったがこの地に移された。 上部に大きく梵字が刻まれ、その下には28字の本文が4行にわたって刻まれている。最後の行は、「弘安第五天」の年号(1282年のこと)で、2回目の元寇の弘安の役の翌年にあたる。また製作者清俊の名が刻まれている。清俊は鎌倉円覚寺の開祖である無学祖元の弟子と言われてい る 。碑文は、省書が多く文意不明であるが、祖元(宋からの帰化僧)が、九州博多で戦死した蒙古兵を弔うために作った供養文と言われている。 移転の際、碑の下より経文の一字一字を書いた丸い小石が多く掘り出された。これは功徳を得るために経文を一字ずつ小石に書写して地中に埋めその上に石塔を立 てる信仰習俗があり、「大乗妙典一字一石之塔」であるといわれ、「蒙古碑」の裏面にも、「一字一石塔」として利用したことが書かれている。