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宮城県仙台市青葉区下愛子字西風蕃山

  西館跡は、蕃山北麓に位置する小高い丘の中腹にある。東西約150m、南北約100mで、土塁、井戸、池跡などが遺っている。 古文書によると、この屋敷には当初、山岸修理之助定康が居していた。定康は、名取郡富沢邑主、山岸三河守宗成の子である。その後は、伊達家の国老の茂庭綱元が、元和7年(1621)ごろから栗原郡文字村に隠栖するまでの約15年間この屋敷に居した。その後、綱元は五郎八姫にこの屋敷を献上し、屋敷に手を加え五郎八姫の仮御殿となった。 五郎八姫は文禄3年(1594)京都聚落第に生まれた。慶長4年(1599)、6歳のとき、徳川家康の七男の忠輝(8歳)と婚約した。このことは大名間の無断婚姻を固く禁じた豊臣秀吉の遺命に背くものであり、翌年行われた関ヶ原戦の導火線となった。 慶長11年(1606)、五郎八姫が13歳のおりに婚儀、同18年(1613)、20歳のとき、越後高田61万石の城主になっていた忠輝のもとへ赴いた。しかし松平忠輝は元和2年(1616)、大阪の陣での失態などを理由に改易され、領地は没収され伊勢に流された。 五郎八姫は23歳で離縁となり、父の政宗に引きとられ、元和6年(1620)仙台に帰り仙台城内の西屋敷に住んだ。このため五郎八姫は「御西様」と呼ばれた。 父政宗の死後、五郎八姫は茂庭了庵屋敷を貰い受け、修築してここに移り住んだ。五郎八姫が43歳前後だったと思われる。万治元年(1658)、五郎八65歳のとき弟忠宗も亡くなり、このとき落飾し「天麟院瑞雲全祥禅尼」と号した。その3年後、病を得て68歳で平穏裡に生涯を終えた。 なお、五郎八姫には忠輝との間に一男あったとも伝えられ、長じて仏門に入り天麟院の二世住持となり、母五郎八姫の菩提を弔ったという。