宮城県仙台市青葉区新坂町…永昌寺

 

当時の伊達家の葬制では、当主やその正室が死去した場合、葬儀は原野で空の棺で行われた。葬礼後火屋で棺を焼き、その灰を銅器に納めて埋め、円塚を築いた。このような葬制は伊達家独特のものだった。

この伊達家独特の葬制は、五代藩主吉村のときに戦国時代の無益な遺風であるとして廃された。

保春院は、「出羽の驍将」最上義光の妹で、伊達輝宗の室となり、伊達政宗の生母である。しかし政宗は5歳の時に疱瘡をわずらい右眼を失明し、そのためか義姫は政宗を疎んじ、弟の竺丸(小次郎)を溺愛したという。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めの年、保春院は小次郎に家督を継がせるため、政宗を毒殺しようとしたが、政宗は弟の小次郎を斬り後顧の憂いを絶って小田原に参陣した。

保春院は、文禄3年(1594)、兄のいる最上家へ身を寄せる。しかし兄義光の死後、家督争いや孫の急逝などで最上家は家中内紛が絶えず、ついに幕府によって改易され、保春院は行き場を失ってしまう。

元和2年(1622)、政宗は行き場をなくした母保春院を仙台に呼び戻した。政宗56歳、母保春院は75歳になっていた。再会をはたした母子は、このとき贈答歌を交わした。

あいあいて 心のほとや たらちねの ゆくすゑひさし 千とせふるとも   (政宗)

二はより うへしこまつの 木たかくも えたをかさねて いく千世のやと  (保春院)

このわずか1年後、保春院はその波乱の人生を終えた。

伊達から追放同然に最上にもどされ、その最上も混乱の中で滅び、最期は伊達の女性として最大の敬意をもって弔われた、その証がこの灰塚であると思いたい。

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