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宮城県仙台市青葉区名掛丁~一番丁
まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ
七夕は としに一たひあふときく さりてかへらぬ 人のゆくすえ
仙台では、7月6日の夕方から、笹竹をかざり姫星と彦星を祭って、手習、手芸の上達を願い、農家では田の神の乗馬として藁などで七夕馬をつくって屋根に上げるなどして、豊作を祖霊に祈った。また、七夕の笹のついた竹は、その小枝を落として物干竿に使用し、小枝は七夕飾りのついたまま広瀬川に流して、盆祭りに入るみそぎの意味で水を浴び、洗い物をした。 しかしこのような七夕まつりも、明治維新の混乱の中で、全国的に衰微し年々行われなくなり、第1次世界大戦後の不景気をむかえてからは、ますます寂しくなる一方だった。仙台でも、大正末期の七夕まつりが幕末当時のものと比べて「往時のそれに比較する時は到底及ぶところではない」と記録にある。 全国的に不景気だった昭和2年(1927)、仙台大町の商家の有志達が、仙台商人の心意気とばかりに、華やかな七夕飾りを復活させた。久しぶりにその光景を目にした仙台っ子達は喝采し、飾りを一目見ようとする人で街はあふれ返った。翌昭和3年(1928)には、元来旧暦行事だったのを新暦日付の月遅れの8月6日、7日、8日の3日間にわたり、東北産業博覧会の行事として、さらに仙台七夕を盛んにしようと仙台商工会議所と仙台協賛会との共同開催で「飾りつけコンクール」が催された。 東一番丁、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、立町通りなど11町会が参加し、8月6日夕方から一斉飾りつけをし、3日2夜にわたる七夕が行われた。仕掛け物、電飾と様々な趣向を凝らした七夕飾りで、しばしば交通制限が行われるほどの盛況ぶりで、これが今に続く新生仙台七夕となった。 しかし、太平洋戦争で、再び七夕飾りは街から消えていき、戦況が激しくなった昭和18、19年(1943、44)には、いくつかの飾りが商店街にみられただけで、ほとんど飾られることはなかった。しかし終戦の翌年、昭和21年(1946)、一番町通りの焼けた跡に52本の竹飾りが立てられ、昭和天皇が巡幸された昭和22年(1947)には、巡幸沿道に5千本の竹飾りが七色のアーチをつくりこれを迎えた。それ以降、商店街が七夕にかける熱意は並々ならぬもので、現在に到っている。