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宮城県仙台市青葉区名掛丁~一番丁

  日本の七夕まつりは、日本古来の民俗信仰を母体とし、盆行事としての宗教的な要素と、中国の技芸上達を願う乞巧奠(きっこうてん)という星祭の行事が合わされたものといえる。 日本では、年2回、旧暦の正月と7月15日は、祖霊を祀る日とされており、正月の七草の日と、7月7日は15日の祖霊の大祭の準備に入る斉日だった。また旧暦の7月7日頃は、丁度稲が開花期に入る時期にあたり、風水害や病虫害が発生する季節であり、人々はただ豊作を神々に祈るしかなかった。昔人々は、田の神は万能の祖霊の変化したものであると信じており、7日の早朝、人々はみそぎをして心身を清め、祖霊を祭るお盆の行事に入った。 祖霊に、海山の幸を供え、新しく織った衣を捧げた。選ばれた乙女「棚機女」(たなばたつめ)たちが、機屋(はたや)の「棚機」(たなばた)で、心をこめて衣を織り上げた。現在、七夕の飾りに欠くことができない紙衣は、女子の針仕事の上達を願う意味の他に、神に捧げる衣の意味を持っていた。 奈良時代の頃、中国から星祭である乞巧奠がわが国に伝来した。宮廷行事として、孝謙天皇の天平勝宝7年(755)に初めて行われた。当時は、梶の葉に金の針を7本通し、また別に七つの孔をあけて五色の糸をより合わせてそれに通し、庭に椅子を置いて和琴を立てかけ、天皇が「二星会合」をご覧になり宴を行ったのが始めの形であると伝えられる。それが次第に、日本古来のたなばた信仰と複合されていった。 江戸時代になると、たなばたまつりは五節句の一つとされ、全国的に盛んに行われるようになった。このころから竹飾りも飾られるようになり、始めは五色の願いの糸を垂らすだけだったが、元禄頃から短冊をさげ、吹流しをつけるようになってきた。将軍家で行われた七夕は、城中に二本の笹のついた竹を立て、五色の糸を張りわたし、色紙、短冊、梶の葉に自作の歌や古歌を書いてつるした。笹竹にかけられる五色の糸は「願いの糸」と呼ばれて、この糸をかけて二つの星に祈ると、その願い事が三年の間に必ずかなうといわれていた。 仙台藩祖伊達政宗は、七夕に関する和歌を数首詠んでおり、この時期仙台ではすでに七夕の行事を取り入れていたと思われる。

まれにあふ こよひはいかに七夕の そらさへはるる あまの川かせ

七夕は としに一たひあふときく さりてかへらぬ 人のゆくすえ

仙台では、7月6日の夕方から、笹竹をかざり姫星と彦星を祭って、手習、手芸の上達を願い、農家では田の神の乗馬として藁などで七夕馬をつくって屋根に上げるなどして、豊作を祖霊に祈った。また、七夕の笹のついた竹は、その小枝を落として物干竿に使用し、小枝は七夕飾りのついたまま広瀬川に流して、盆祭りに入るみそぎの意味で水を浴び、洗い物をした。 しかしこのような七夕まつりも、明治維新の混乱の中で、全国的に衰微し年々行われなくなり、第1次世界大戦後の不景気をむかえてからは、ますます寂しくなる一方だった。仙台でも、大正末期の七夕まつりが幕末当時のものと比べて「往時のそれに比較する時は到底及ぶところではない」と記録にある。 全国的に不景気だった昭和2年(1927)、仙台大町の商家の有志達が、仙台商人の心意気とばかりに、華やかな七夕飾りを復活させた。久しぶりにその光景を目にした仙台っ子達は喝采し、飾りを一目見ようとする人で街はあふれ返った。翌昭和3年(1928)には、元来旧暦行事だったのを新暦日付の月遅れの8月6日、7日、8日の3日間にわたり、東北産業博覧会の行事として、さらに仙台七夕を盛んにしようと仙台商工会議所と仙台協賛会との共同開催で「飾りつけコンクール」が催された。 東一番丁、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、立町通りなど11町会が参加し、8月6日夕方から一斉飾りつけをし、3日2夜にわたる七夕が行われた。仕掛け物、電飾と様々な趣向を凝らした七夕飾りで、しばしば交通制限が行われるほどの盛況ぶりで、これが今に続く新生仙台七夕となった。 しかし、太平洋戦争で、再び七夕飾りは街から消えていき、戦況が激しくなった昭和18、19年(1943、44)には、いくつかの飾りが商店街にみられただけで、ほとんど飾られることはなかった。しかし終戦の翌年、昭和21年(1946)、一番町通りの焼けた跡に52本の竹飾りが立てられ、昭和天皇が巡幸された昭和22年(1947)には、巡幸沿道に5千本の竹飾りが七色のアーチをつくりこれを迎えた。それ以降、商店街が七夕にかける熱意は並々ならぬもので、現在に到っている。