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宮城県仙台市青葉区中央一丁目

  名掛丁は、仙台駅北西側にある商店街で、新伝馬町を通り、一番町に通じるアーケード街の入り口にあたる。しかし、名掛丁は、駅の北東側の宮城野区にも存在する。 藩政時代、名掛丁は仙台城大手門に通じる重要な街路だった。西の新伝馬町から東の東七番丁車町まで続く細長い町で、石巻・松島・塩竈という石巻街道沿いの港から仙台城下町へ入る際に通らなくてはならず、名掛丁の東の二十人町および鉄砲町と合わせて、城下の東の守りであった。名掛丁には、御名掛衆と呼ばれた徒歩侍の組士が住み、このことから「名掛丁」と呼ばれた。 仙台藩では、門閥以下に、大番士、組士、卒があり、この中の組士をさらに十一に分けた中に、御名掛という役があった。当時、名掛組が百十一家あったと記録されている。伊達家十代氏宗以来、特に名を懸けて麾下に取りたてられたものの子孫である徒歩侍を、名懸衆と言ったと伝える。 明治20年(1887)に東北本線が出来ると、東六番丁辺りに出来た踏切によって町は東西に分けられてしまった。西側は、仙台の中心部である国分町、東一番丁、大町と仙台駅との間を結ぶ道として人々の往来が増加し、秩禄処分で没落した士族の街から商店街へと変貌した。大正時代には、間口の広い商店や土蔵が建ち並ぶほどになった。 しかし東側は市街化が遅れ、さらに踏切が高架になり、人の流れは東北本線により断ち切られ、付近は特殊飲食街となり、戦前は赤線地帯となった。西側は町名も名掛丁から中央1、2丁目に変わり、双方のつながりは次第に薄れ、祭りなども別々に開かれるようになった。昭和10年(1935)、駅北側に地下通路が開通したが、大きな人の流れは分断されたままで、「名掛丁」として一つの町に戻ることはなかった。 近年、仙台駅東の宮城野区名掛丁も再開発が進み、西側青葉区中央一、二丁目も、由緒ある「名掛丁」に町名を戻す動きがあり、一つの町としてのつながりを持たせようとする動きがでている。