宮城県仙台市青葉区片平二丁目

 

魯迅は、明治37年(1904)9月から仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学した。当時の官立の学校では中国からの留学生の入学は清国公使の推薦状で入学が許され、魯迅は無試験で入学している。当時の仙台医学専門学校では、学問修得に特別の忍耐と努力を必要とし、卒業にまで漕ぎ着けるのは至難の技であった。魯迅も学業について行くことが困難になり、町で遊興に耽ることもままあったという。

当時は日露戦争の最中であり、町で戦争報道のニュース映画を観る機会があった。その映画では、ロシア軍スパイの中国人が日本人によって、スパイとして処刑され、さらに同胞である中国人が、処刑される様を喝采して見物する姿があった。それを見て、中国人を救うのは医学による治療ではなく文学による精神の改造だと考えたという。

当時の日本では、日清、日露戦争の戦勝気分の中、中国蔑視の風潮が強まっていたが、仙台医学専門学校では藤野厳九郎が魯迅を親切に指導した。この師弟の年齢差はわずか7才で、藤野は公私にわたり親身に指導したようで、魯迅が仙台を去るときには、写真を渡し、その裏には「惜別」の言葉があったという。魯迅もまたこの藤野を慕い、後に自伝的短編小説「藤野先生」を著している。

明治39年(1906)3月、仙台医専を退学し、東京での生活を経て帰国。杭州、紹興などを経て、明治42年(1912)、南京において中華民国臨時政府教育部員となった。さらに政府の移転に伴い北京へ転居。大正7年(1918)、雑誌『新青年』に『狂人日記』を発表し、以来文筆活動を本格化した。

北京大学では非常勤講師として中国小説史の講義を担当した。中国の伝統的文学観においては、小説は歴史や詩文に比べて一段低いものと見なされ、研究に値しないとされていたが、魯迅は早くから散逸していた小説の断片を集めるなど実証的な基礎作業をすすめていた。その蓄積にもとづいて神話伝説から清末までの小説史を論じたものが『中国小説史略』(1924年)である。中国最初の小説史であり、今日でもこの分野を語る際の必読書となっている。この他、代表作に『阿Q正伝』などがある。

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