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宮城県栗原市金成津久毛字平形松迫

震災前取材

 

津久毛橋(つくもはし)城は、文治5年(1189)、奥州合戦の際に藤原泰衡がこの地に陣を敷いた。三迫川南岸に布陣した頼朝軍は津久毛橋城を攻撃、泰衡が平泉へ落ちた後は、鎌倉御家人梶原平治景高が陣所としたとされる。この地は、南北に通じる街道が三迫川をわたる交通上の要地であった。しかしこの三迫川一帯は、つくもが生い茂る低湿地帯であり、鎌倉軍はこれを刈り、敷きつめて橋代わりとし全軍を渡したと伝えられる。

この「つくも橋」を渡り進軍するとき、梶原景高は、

 陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が頸

 と詠み、頼朝に献上したという。

その後南北朝期の興国2年(1341)9月、南朝方の北畠顕信がこの城に入り、三迫、津久毛橋、新山林、八幡、鳥谷の5箇所に館を構え、多賀国府奪還、関東進出をかけて北朝方へ決戦を挑んだ。北朝方の石塔義房らは、津久毛橋と八幡の間の釜糖城を拠点とし、諸方の援軍を得て南朝方諸城館を攻略、最後の拠点となった津久毛橋城を攻め落として南朝方を退けた。

比高約20mの小丘陵突端部に所在し、丘陵頂部の東西約100m、南北約50mの平場が主郭部となる。主郭周囲には、土塁状の地形や空掘とも思われる地形があるが、当時の遺構か後世のものかは定かではない。

主郭部西端には、源義経の身代わりとなって自殺し、義経北行伝説の原点となる杉目太郎行信の供養碑が建てられており、また付近には壇の原、乱れ橋といった古戦場が伝えられている。

その後は歌枕の「つくもばし」として知られるようになり、江戸期には松尾芭蕉と曾良も訪れている。