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宮城県仙台市青葉区東照宮一丁目

震災前取材、2018/05/18更新
  徳川家康をまつる東照宮は諸大名が競って勧請し、現在でも全国に508社ある。東北地方では弘前藩が元和3年(1617)に造営したのを皮切りに、会津蒲生氏が元和8年(1622)、鶴岡藩が正保2年(1645)に造営した。 仙台藩初代藩祖の伊達政宗は、徳川家康との結びつきを強めながらも、天下への野望は捨ててはおらず、二代将軍徳川秀忠の後継を巡っての争い次第では、兵を挙げることを考えていたようだ。 幕府は、外様大名の周囲に、親藩、譜代大名を置き、何か事あれば外様大名を排除する武断政治を行っていた。政宗の母の実家の最上藩が改易された際に、「隠居屋敷」と称して若林城を築いたのも、「おめおめ改易はされない」という政宗の強い意志だったろうと思われる。 しかし三代将軍家光の時代になり、幕藩体制も安定化し、政宗もその野望を捨てて、徳川家との結びつきを強めようとしていたようで、元和3年(1617)には、忠宗の正室に、徳川秀忠の養女振姫を迎え、死後には若林城を破却し、仙台城を平地に移すように遺言し没した。 忠宗は、政宗の遺言を守り、徳川家との結びつきを強めることに尽力していたが、正保3年(1646)、政宗の再来と藩内から期待されていた嫡男の光宗が急死した。 この光宗の死は、当初から幕府による毒殺説があった。その真偽は定かではないが、忠宗は幕府に挑戦するかのような、当時すでに禁教となっていたキリスト教を思わせるバラの花やユリの花をあしらった廟所を建て封印し、仙台東照宮の造営を願い出て許された。これが政宗の遺言と、光宗の死を受けての仙台藩治世の藩主としての覚悟だったのだろう。 仙台東照宮は、仙台城の鬼門の北東の方角にあたる小田原玉手崎の地に造営され、慶安2年(1649)に着工し、承応3年(1654)に完成した。建立には835千人の人手と、小判2万2千両余を要したという。 神体は、承応3年(1654)3月に江戸を発ち、騎馬・鉄砲・槍などに守られながら仙台に到着し、藩主忠宗をはじめ一門・一族総出で出迎えられた。 仙台東照宮は、全国各地に造営された東照宮の中でもすぐれた建築として知られており、幣拝殿と本殿が透塀により隔てられた形式である。幣拝殿は、昭和10年(1935)に焼失し、昭和39年(1964)に再建された。   ・東照宮本殿 本殿は、桁行三間、梁間二間、入母屋造銅瓦葺で、三方に縁をまわし、一間の向拝が付く。正面と側面の桟唐戸は、麻の葉繋ぎの地紋に天女や唐獅子の彫刻が施されている。内部は内陣と外陣に分かれ、漆喰、金箔、七宝の金具等で装飾されている。内陣には入母屋造、柿葺で絢爛たる彫刻や飾り金具、彩色が施されている屋形厨子が安置され、徳川家康を祀る。   ・唐門、透塀 唐門は、一間一戸の向唐門で銅瓦葺、扉には鳳凰、麒麟の浮き彫りを施している。透塀は一周延79.4mで本殿を囲み、銅瓦葺屋根、一定間隔に格子を取りつけた連子窓を付け、腰壁には桟をたすき状に配している。   ・随身門 随身門は、寺院の仁王門にならったもので、随身姿の二武将像を安置している。楼門形式による三間一戸の八脚門で、入母屋造、銅瓦葺の重厚な門である。左右に袖塀が付く。   ・石灯篭 附指定の石灯篭は、承応3年(1654)刻銘30基、延宝8年(1980)刻銘2基、天和2年(1682)刻銘2基の計34基で、昭和53年(1978)の宮城県沖地震により被害を受けたが、修復された。   ・鳥居 花崗岩で作られた明神鳥居で、承応3年(1654)の刻銘があり、備前から運ばれたものである。備前は忠宗夫人振姫(徳川秀忠の養女、池田輝政の娘)の出身地である。   ・手水舎 承応3年(1654)の創建で、切妻造、本瓦葺、一間四方の吹き放しである。中心に花崗岩の水盤が設置されている。簡素な造りで良好な保存状態である。