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宮城県仙台市青葉区霊屋下…瑞鳳寺境内

瑞鳳寺の本堂脇に、「高尾門」と呼ばれる瀟洒な薬医門がある。この門は、仙台藩三代藩主伊達綱宗の側室、椙原品(すぎはらしな)の屋敷門と伝えられ、支倉町にあったものを移築したもの。

伊達綱宗は、二代藩主忠宗の嗣子であった光宗の死後(幕府による毒殺の説あり)、側室である櫛笥氏の子、万之助を後継とし、これが後の綱宗となった。櫛笥氏はその姉が後西天皇の生母であったため、天皇と綱宗は従兄弟の関係になり、重臣の中には「幕府から睨まれる」と危惧していた者もいたという。事実その後忠宗のあとを継いだ綱宗は21歳で強制的に隠居させられ、これが寛文事件へとつながっていった。

綱宗が若くして隠居させられた理由として取りざたされているのは、遊郭へ通い詰めるなどの遊蕩癖が原因と言われているが、朝廷との間が近すぎるということと、伊達兵部ら一門、普代家臣らとの軋轢が原因だったと思われる。

「高尾太夫」は吉原三浦屋の花魁で、綱宗に身請けされたがその意に従わず、三叉の船中でつるし斬りにされたと伝えられるが、これは後に伊達騒動を題材にした、歌舞伎の『伽羅先代萩』などからの俗説であり、真実ではないと考えられる。

「高尾門」と呼ばれているのも、この俗説からのもので、実際の側室だった椙原品は、高尾とは別人である。 綱宗には正室はなく、その側にあった主な女性は、亀千代を生んだ三沢初子と品との二人だった。初子は綱宗と同年、品は綱宗より一つ年上であったらし。

初子は家柄が好く、後見があったことで、綱宗は初子と正式な婚礼をしている。綱宗も初子も16歳の時であった。それから4年目に亀千代が生れた。品は初子が亀千代を生んだ年に21歳で浜屋敷に仕へた。

品は、播磨の赤松氏の一族の、椙原氏の流れと云われているが定かではない。赤松氏が没落し、父親は浪人で麻布の盛泰寺の女を娶り品が生まれたが、父が没した後、19歳の時に盛泰寺に引き取られた。

綱宗が品川に若くして隠居させられると、初子は幼くして家督を継いだ亀千代の生母として、不穏な仙台藩に残り亀千代を守り養育した。品は綱宗が幕府の命で品川の屋敷に隠居したときに綱宗に従った。そして、綱宗に請うて一日の暇を得て、親戚故旧を会して馳走し、永の訣別をし、以後、一切の係累を絶って、不幸な綱宗に一身を捧げた。綱宗もそれに感じいり、品に雪薄の紋を与えたという。

品は、綱宗が72歳で没するまで忠実に仕へ、綱宗が没したあとは尼になり浄休院と呼ばれ、仙台で享保元年(1716)、78歳で没した。