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宮城県仙台市青葉区大町一丁目

  土井晩翠は、少年時代から新体詩や英文学を愛好し、旧制二高に進学するや「尚志会雑誌」に詩を発表、東京帝国大学在学中に「帝国文学」の編集委員となった。そして明治32年 (1899)第一詩集「天地有情」を刊行、斬新な熱情と叙事詩風な作風によって、詩壇を二分する「晩翠・藤村時代」を形成した。晩翠作詞、滝廉太郎作曲の「荒城の月」は明治34年 (1901)発表された作品で、世界の人々に愛唱されている不朽の名作である。 その後晩翠は、旧制二高で教鞭をとるかたわら、詩集「暁鐘」、「東海遊子吟」、「曙光」などを次々に刊行、近代詩人としての名声を確かなものにするとともに、ホーマーの「イーリアス」、「オヂュッセーア」を原典から完訳、文学史上に大きな足跡を残した。昭和25年 (1950)、これらの業績に対し文化勲章が贈られた。 しかし家庭的には不運だった。三十代後半で生後間もない男児の双子を亡くし、六十代前半で「鳶が生んだ鷹」と自慢の、成人した長女長男を相次いで病のために失った。六十代後半、次女夫婦としばしの幸せも得たが、その次女も間もなく親に先立ち、昭和20年 (1945)7月、仙台空襲により、旧邸と3万冊の書籍を焼失した。また戦後妻の八重も晩翠より先に逝った。 このような苦境の晩翠に対し、晩翠会の人々が発案し、晩翠草堂を建設しこれを贈った。「天地有情」の碑も、旧制二高の教え子が晩翠に贈った物である。