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宮城県仙台市青葉区中央三丁目

  明治から大正にかけて、仙台には芝居小屋や寄席、見世物小屋がたくさんあった。そこ では浄瑠璃や曲弾き、手裏剣投げのほか、若い娘の火渡りや釜抜けなどを催していた。 現在の西公園にも芝居小屋があり、一番町の現在の仙台フォーラスあたりに移り松島座となった。松島座は1千人を収容できたとされ、歌舞伎のほか浄瑠璃や怪談劇などが上演され人気を博した。その他、一番町には、歌舞伎や新派劇を上演していた森徳座や、寄席の笑福亭や長寿亭もあり、また活動写真の仙集館などもあった。 仙台座は、明治23年(1890)南町通りに芝居小屋として開設され、当時は東北一の規模の劇場だったと云う。この当時、「元禄忠臣蔵」や「平将門」の名作を残した劇作家の真山青果の生家が仙台座のすぐ向いにあり、当時中学生(旧制中学)だった青果は、よく学校を抜け出し通いつめたと云う。 明治29年(1896)に、日本に初めて映写機が輸入され、仙台座でも翌年の明治30年頃から活動写真が上映されるようになったらしい。大正時代から昭和にかけて、映画が人気を集めるようになり、仙台の芝居小屋の多くは映画の上演が中心になっていった。 昭和20年(1945)7月、仙台はアメリカ軍による戦略爆撃を受け、仙台の市街地の多くは焼失し、仙台座も焼失した。