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宮城県仙台市青葉区中央三丁目

    眞山青果は、宮城尋常中学校(現在の仙台第一高等学校)に入学、性格は豪宕不覇(ごうとうふは)、在学時代に既に一方の雄で、国漢以外の授業は大抵欠席し芝居見物だったと云う。彼の生地の向かい側には東北一の仙台座があり、幟が幾本となく劇場前に林立し風にはためいていた。これらの座は今の常設館の様にひっきりなしに興行し、軟派の生徒達はよくここに出入りしていた。 青果の文章はクラスの中で第一だったが、その不覇奔放の性格は彼を満足に学校を卒業せしめないでしまった。旧制二高を中退、上京し小栗風葉に師事し、めきめき頭角をあらわして、当代一流の劇作家となった。 自然主義作家として「南小泉村」 、また社会劇「生まれざりしならば」などがある。 同時期に文壇に登場した正宗白鳥とともに「白い鳥と青い果」といいはやされ、華々しい注目を浴びた時期もあったが、その性格から浮沈の激しい作家人生を送ることになった。田山花袋らと対立し、「嵐の如く感情が狂奔すると、理性も、利害も、分別も、何もかもその力を失ってしまって、自分で自分の感情を制御できない」といわれ、直情径行型の作家であったと伝えられる。それゆえの放縦生活が、原稿二重売り事件として自らを文壇から去らしめることにもなったが、文学上の苦闘を乗り越え、確固たる気概を持った戯曲家として蘇ってもいる。 戯曲として「平将門」「元禄忠臣蔵」などの名作を多く残しており、気骨ある人物と重厚な会話が劇作の特徴で、また井原西鶴の研究においても顕著なものがあった。昭和23年(1948)、沼津市の寓居にて脳溢血により死去した。