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宮城県仙台市青葉区北目町

最後の海軍大将として名高い井上成美(しげよし)は、明治22年(1889)仙台市青葉区北目町の仙台藩士の家系に生まれた。仙台藩校養賢堂の流れを汲む第一中学校(現在の仙台第一高等学校)に入学し、日露戦争直後の明治39年、海軍兵学校に入学した。兵学校入校時の成績順位は180名中第8位、卒業時の成績順位は179名中2位であったと云う。しかし、成績順位や自身の出世等には超然としていたと伝えられる。

イタリア海軍駐在武官、軍務局第一課長、横須賀鎮守府参謀長などを歴任。横須賀鎮守府参謀長の際には司令長官の米内光政を補佐し、二・二六事件の発生を予見しすばやい対応をとってもいる。その後、軍務局長として米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官とともに日独伊三国軍事同盟条約締結に強硬に反対し、「海軍左派3羽烏」とも称された。

自ら「ラジカル・リベラル」と称し、剛直で理論家肌の性格と切れすぎる頭脳は、「三角定規」「剃刀」と異名され、相手が面目を失うまで手厳しく批判するなど矯激な行動が見られ、部内には敵も多かったようだ。しかし、艦長時代には艦長不在中に勝手に艦長室のベッドで熟睡してしまった従兵を気づかい、自分はベッドの端で就寝し、従兵が気づいて直立不動で謝罪しても、まあいいから朝の総員起こしまで寝ておけと不問に付したりもし、「三角定規ではあるものの杓子定規ではない」との評価も多かった。

当時の海軍軍人としては珍しく、女性に対しては禁欲的だった事で知られており、たまに待合茶屋などに行っても布団に入っては英書を読んでいたと云う。しかし、公務の時には表に出ない内面の優しさや温かさからか、芸者たちには大いに慕われたと云う。米内や山本とともに馴染みだった横須賀の料亭の女将は「いくら叩いても埃一つ出てこない人」と言っていたと伝えられる。

海軍内では、すでに大艦巨砲主義による艦隊決戦の時代ではないという先見の明をもち、航空戦力を充実すべきとの考えだったが、その主張が十分に取り入れられることはなかった。また、米内光政、山本五十六とともに、日米開戦には強硬に反対していたが、時代は後戻りができない状況にまでなっており、海軍の不戦論はかなわなかった。

成美は、戦艦比叡の艦長、太平洋戦争中には、海軍次官、航空本部長、第4艦隊司令長官を歴任し、ウェーク島攻略作戦、珊瑚海海戦などを指揮した。この珊瑚海開戦の指揮が消極的だったとし司令長官を解任されたが、それに対し弁明することは一切なかったと云う。その後、山本五十六の命令で海軍兵学校校長に就任、このころからすでに日本の敗戦を予感し、敗戦工作を研究し始めたと云う。

米内光政が海軍大臣に復帰すると成美は海軍次官として中央に復帰、海軍省教育局長に終戦工作の研究を指示、米内を援け早期和平に向けて尽力した。「敗戦は亡国とは違う。古来いくさに勝って国が滅亡した例は少なくない。逆に戦いに破れて興隆した国がたくさんある。無謀の戦争にこのうえ本土決戦の如き無謀を重ねるなら、日本は本当に亡国になってしまう」として早期終戦を強硬に主張昭和20年(1945)、海軍大将に昇進し大日本帝国海軍最後の海軍大将となった。

敗戦後、横須賀市長井に隠棲し、贖罪のため、ほとんど人前に出なかったことから、「沈黙の提督」とも呼ばれた。せがまれて子供たちや、横須賀で馴染みの芸者たちに英語を教えたりなどしていた。井上が英語教育をしていた住まいは、かつて井上の英語塾に通った地元の方々によりその一部分が保存され、小さいながら記念館として一般に開放されている。

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