宮城県仙台市青葉区一番町四丁目

 

仙台藩の出身で江戸に出て成功を収めた青柳文蔵が、仙台藩に書籍2,885部、9,936冊と 文庫を開設するための資金1000両を献上し、それを広く活用させるために、1831年(天保2年)、藩の医学校があった場所に公開の文庫として設けた。蔵書は、武士や町人の別なく閲覧、貸出され、これは、日本で始めての公共図書館とされる。

文庫の建物は、間口3間2尺5寸(約6.2m)、奥行2間2尺5寸(約4.4m)ほどの土蔵造りだった。文庫は、明治維新まで存続したものの、戊辰戦争以来の世情の混乱で蔵書は散逸したが、それらの一部は、明治7年(1874)、宮城師範学校に引き継がれ、明治14年(1881)年に宮城書籍館(のちの宮城県図書館)が開設されると同校から引き継がれた。現在、宮城県図書館には、青柳文庫蔵書が459部・3,339冊所蔵されている。「養賢堂文庫」(旧仙台藩校養賢堂の蔵書)とともに、この青柳文庫の蔵書が宮城県図書館の蔵書の母体となった。

かつてこの地には、「青柳文庫記」が刻まれた石碑があり、その碑文には、「之(=文蔵の蔵書)を世の士子にして、吾少時の如く志を抱きて遂ぐる能わざる者に付して之を読ましむるに如かず」とあったといい、文蔵の学問への志を十分に達せられなかった思いから文庫が設置されたと思われる。

青柳文蔵は、宝暦11年(1761)、仙台藩領だった現在の岩手県一関市東山に町医者小野寺三達の三男として生まれた。父の医業を継ぐため、16歳で医師の門人となったが18歳で江戸に出て、その際父から勘当を言い渡され、以後小野寺姓を捨てて父の旧姓である青柳を名乗ったと云う。

江戸に出たのち、文蔵は折衷学派の儒学者に師事したりしたが、やがて文蔵は、中国宋代の判例集の『棠陰比事』など、法令、法度の書物にひかれ、ついに金銭上のもめごとなどに介入し解決の仲介をする公事師として名をあげ、金融業なども営み財を成した。文蔵は天保10年(1839)、江戸でその生涯を終えた。

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