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宮城県栗原市金成赤児字段ノ原

震災前取材

栗原市金成赤児の県道脇にこの塚がある。葺き石を上面に敷き詰めた経塚で、平安末期から鎌倉初期に築造されたものと言われている。

この塚には、赤児大杉の伝説と関わる伝説が伝えられている。

元慶3年(878)8月に、秋田の蝦夷を討伐するためにこの地を通った鎮守府将軍小野春風の妻が、大杉の地で産気づき、春若丸を生んだ。しかしその後、春若丸は病死し、この塚を築き墓としたと伝えられる。

また、この塚には、次のような伝説も伝えられる。

平泉の藤原秀衡は、大変歌舞を好み、舞童数十名を選んでしばしば舞わせて楽しみとしていた。その中に春風という少年がいた。この少年は容姿も端麗で、舞も群を抜いて優れていた。そのため、衆人から称えられ、秀衡もこれを賞し、特に目をかけていた。

しかし、他の舞童たちはこれを妬み、密かに人をたのみ殺害し、この地に埋めた。秀衡はこれを悲しみ、この地に塚を築いた。

春風は、いつも紅衣を着用していたことから、後の里人達が、この里を「赤児」と呼ぶようになったと云う。