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宮城県仙台市泉区古内
震災前取材
別名:二つ城
実沢、七北田川の南岸に切り立った山があり、この山頂に山野内城は築かれていた。比高約50mの断崖絶壁上で、東西約350m、南北約170m、山頂を二つもち、地元では「二つ城」とも呼ばれていた。
西方最頂部の本郭は、約40m四方の平場で、中央部はさらに高くなっている。本郭から北東へ150mほどのもう一つのピークが二の郭で、幅約20m程の平場になっている。
最初の城主は山内須藤刑部少輔藤原定安(さだやす)と伝えられている。その子孫に須藤定信(さだのぶ)がおり、定信は天正12年(1584)に根岸城(大年寺山)の結城七郎と争ったが敗れ、城を出て杭城に立て籠もった。須藤刑部はここでも敗れ、福岡の首藤坂で自刃したと伝えられている。
伝承として伝えられる南北朝時代の山邑城は、この山野内城にあったとも言われている。
元弘3年(1333)鎌倉幕府の滅亡にあたっての戦いには、奥州武士も多く参加した。しかし建武中興は3年たらずで瓦解し南北朝時代を迎え、奥州各地で南朝方、北朝方に別れ争うようになった。
足利尊氏は、多賀国府から南朝方の北畠顕家を伊達霊山に追い出し、大崎義兼を探題として陸奥に下し、吉良貞家、畠山高国を奥州管領として多賀国府に送った。
正平5年(1350)、足利尊氏と直義兄弟の間にいわゆる 観応の擾乱がおこり、仙台平野においても、畠山氏と留守氏は尊氏方となり留守氏の居城岩切城に籠もり、直義方の結城氏、国分氏、吉良氏と戦った。岩切城は落城し、畠山氏、留守氏は壊滅的打撃をうけた(岩切城合戦)。
虚に乗じて、南朝方の北畠守親は、後醍醐天皇の孫といわれている山村宮(=正平親王)を奉じて、山邑城(やまむらじょう)に立て籠もり北朝方に対抗した。しかし正平7年(1352)、勢いを盛り返した北朝側に攻められ、大河戸一族と共に奮戦したが、山村宮も戦死して、北朝方の勝利に終わった。