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宮城県仙台市泉区加茂二丁目

震災前取材

長命館跡は現在の加茂団地の中に、公園として整備されている。旧奥州街道に接した城跡は標高90mで 、大きく五つの平場に分かれている。本郭跡は1000平方mほどの平場で、南方に二の丸らしい500平方mほどの平場がある。各平場は空掘と土塁で守られている。新興団地の中の城跡であるが、遺構はかなりよく残っている。

長命館は西木戸太郎国衡が築城したと云われている平泉藤原方の陣所。「国分中山物見岡城」と同一との説もある。 調査の結果では、鎌倉~室町時代にかけての陶磁器等が出土し、中世の城跡とされているが、平泉藤原氏の城塞跡に中世の館が造られたものと推測できる。中世には 国分氏の一族の長命氏がこの館に居住したと伝えられるが、長命氏の詳細については明らかでない。長命館の名は長命氏から来たものと考えられる。

奥州攻略を決意した頼朝は、大軍を率い平泉討伐に向かった。平泉軍は、福島伊達郡阿津賀志山(厚樫山)に陣をしき、西木戸太郎国衡を総大将として 迎撃した。泰衡は宮城郡国分原(仙台榴岡)に陣をしいた。

戦闘が開始され二日で厚樫山は破られ、国衡は柴田郡まで逃れて戦死した。この敗戦で泰衡は国分原の本陣を放棄して出羽を回って平泉に逃げたという。頼朝軍が長命館に入ったときは、わずかな残兵のみで無血入城したと伝えられている。