スポンサーリンク

宮城県仙台市泉区市名坂字実相寺…実相寺境内

震災前取材

 

赤穂浪士の中で身分の低かった寺坂吉右衛門は、泉岳寺へ引揚げの途中、大石内蔵助より瑤泉院(浅野長矩夫人)や芸州浅野本家へ、本懐の報告の命を受け、一人同志と別れた。

一年後自首したが許されて仏門に入り、理海坊と名乗った。亡君や同志の菩提を弔うべく諸国をめぐり、晩年この地に錫をとめ、手習い師匠として余生を送ったと伝えられている。

討ち入り後40年の寛保2年(1742)死亡した。遺品を整理してはじめて寺坂吉右衛門であったことがわかり、寺子180人の手によってねんごろに葬らわれた。

側の碑は、仙台藩の学者保田光則の選文で、天保14年(1842)に建てられたもの。

関連動画:

4 thoughts on “寺坂吉右衛門の墓

  1. 仙台新名所物語(エピソード10:赤穂浪士 寺坂吉右衛門の墓)1年以上前に更新 · 仙台市泉区市名坂字実相寺
    寺坂吉右衛門は「忠臣蔵」の中にでてくる赤穂浪士47士の一員で、ただ一人生き残ったとされている人物です。寺坂のお墓は東京・南麻布、長崎・五島、鹿児島・出水、福岡・八女、島根・益田、静岡・伊豆そして仙台の7ケ所にあるとされている。1747(延享4)年10月6日にその生涯を閉じたと伝えられていますがどれが本当の墓かはわかっていません。(Facebook「青柳トラベルエイジェンシー」より引用)
    ・・・寺坂吉右衛門の没年は、上掲の看板の記述(仙台市教育委員会)では「寛保2年(1742年)」と記述されています。墓石の戒名、年号月日は「理海慈寶主 寛保二年壬戊年 五月拾三日」とあります。この史実を裏付けるものとして、墓石の右横に「理海法師墓碑の記 保田光則撰 (中略)天保十四年閏九月 宮下信教 建」(天保14年は1843年没後100年)という石碑が並んで建立されています。他説「延享四年(1747年)10月6日83歳で没し麻布曹渓寺に眠る。遺物(寺坂吉右衛門覚書)信行筆記が寺坂家に伝わる。」とあります。いづれにしても、仙台市民にとっての寺坂吉右衛門の史実をねんごろに後世に伝える墓石として語り継いでいくことに変わりはありません。・・・仙台市教育委員会の解説文に「理海茲寶主」と墓石の法名を記述していますが、墓石には「理海慈寶主」と刻まれています。「茲」(ここにと云う字)ではなく「慈」(じ)が正しいと解釈するのが自然です。仙台市教育委員会は、どうして看板の記述を「茲」と記したのでしょうか?

    1. コメントありがとうございました。返事が遅くなりまして申し訳ありませんでした。

      >仙台市民にとっての寺坂吉右衛門の史実をねんごろに後世に伝える墓石として語り継いでいくことに変わりはありません。<

      各地のお墓にも、恐らくは赤穂浪士への思い入れの、それぞれの物語が伝えられているのでしょうね。「史実」というよりは、その時代の、その地域の方々の「思い入れ」ということなのでしょうが、その時代背景とともに、興味深いものと思っています。

      赤穂浪士に関しては、米沢に、大野九郎兵衛に関するものもあり、これも大変興味深いものです。まだリニューアルされていませんが、よろしければご覧ください。
      http://www.mitinoku.biz/hist_walk/walk_yamagata05/yonezawa_kurobei_hi/

  2. 大郷町の歴史が忘れられていますので。ブログ「おおさと歴史探訪会」にアクセスしてみてください。
    知られざる大郷の歴史がわかります。
     柴 修也

    1. メッセージありがとうございます。
      ご教示いただいたブログで少し勉強したいと思っています。

Comments are closed.