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宮城県仙台市泉区山の寺

震災前取材

慶雲年中定慧法師がこの地に蓮葉山円通寺を開創し、慈覚大師がこれを中興し山の寺と名づけた。その後廃寺となったが、応永7年(1400)梅国祥三禅師が領主国分盛行に請い、七堂伽藍他二十五院の塔中を造営し、大道場となった。しかしその後明応と文禄の年間再度の火災にあい荒廃した。

享保17年(1732)、仙台5代藩主伊達吉村が諸堂を造営し、再び禅宗道場として奥州に重きをなした。しかし、昭和18年、当時近くを通っていた軽便鉄道の火の粉により山火事が発生し、古い由緒ある諸堂はことごとく全焼した。

 

・大蛇伝説

この地に昔、二匹の大蛇が住み着き、寺を湖に沈め、近づく人々を威嚇し困らせていた。室町時代初期、市名坂村の佐藤藤佐衛門はこの大蛇を退治したいと思い、岩沼の竹駒神社に「願かけ」をした。

あるとき素哲禅師が岩沼付近を訪れたとき、洞雲寺の狐の化身の白髪の老人があらわれ、この禅師と藤佐衛門を引き合わせた。禅師は、藤佐衛門の案内で市名坂に赴き、大蛇を法力で退散させた。

その後禅師は領主の国分氏に請い湖をもらいうけ、湖を干すと、昔の寺跡が現れた。禅師はここに寺を建てて、観音像も新たに岩窟に納められた。その観音洞の右側の窟は、この禅師との橋渡しをした狐の祠だという。

 

・坂上田村麻呂伝説

この山の寺には、坂上田村麻呂の伝説が伝わる。諸説あるが、この山の寺に伝わる話では、坂上田村麻呂の父刈田麻呂が、蝦夷征伐の折り、宮城郡利府郷に宿陣し、そのとき九門長者の娘の阿久玉姫を見初め愛した。

刈田麻呂が京に帰った後 、阿久玉姫は男子を生み千熊丸と名付けた。千熊丸は大菅谷保の佐賀野寺(山の寺の前身)で学問をし、観音様に京都にいる父刈田麻呂のもとに行けるよう祈願した。この願がかない京に上り成長し 、後に坂上田村麻呂となった。

山の寺の岩谷観音が、田村麻呂祈願成就の観世音であると伝えられている。