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宮城県仙台市泉区根白石館下

震災前取材

黒川十一世季氏は、室町から戦国時代にかけて黒川郡を領した黒川氏の末裔。

黒川氏は、大崎氏の支族として、現在の宮城県黒川郡一帯を支配した。戦国期に、伊達氏の勢力がこの地域に及び始めると、黒川氏は大崎氏と伊達氏の間で揺れ動いたが、結局伊達氏勢力を背景とし、伊達勢力圏の北辺を固める存在となった。

しかし、黒川氏九代の黒川月舟斎晴氏の時期の天正16年(1588)1月、大崎氏内部の争いは、大崎氏と伊達氏の争いとなり、ついに大崎合戦が起こった。

伊達政宗は、留守政景と泉田重光を主将とし、長江月鑑斎、田手宗実ら大崎領に近接する諸氏を動員しこれにあたった。

この時期の黒川氏は伊達氏の影響下にあり、政宗は晴氏も味方に参じるものと思っていたようだ。しかし晴氏は大崎側として桑折城に入った。

結局、この戦いは、老獪な晴氏の軍略により伊達勢は大敗を喫した。しかし、この戦いで大崎氏の家臣団は分裂し、大崎氏は伊達氏との和議では大幅な譲歩を迫られ、結局大崎氏は伊達氏に屈した。

さらにその後、天正18年(1590)の「奥州仕置」で大崎氏は所領は没収され没落した。

伊達政宗は、ただちに黒川氏に対して報復を行い、晴氏の所領は没収、身柄を米沢に拘禁して断罪しようとした。しかし、晴氏の娘婿である留守政景は、大崎合戦の敗北の折に晴氏に温情を受け、 伊達勢はかろうじて戦場から離脱できたこともあり、政宗に必死に助命を嘆願し、晴氏は以後は政景の保護下で余生を送り、慶長14年(1609)没した。

男子がなかった晴氏は、大崎氏から養子義康を迎えていたが、大崎氏の滅亡後は伊達氏の家臣となり千石を知行した。しかしこの十代義康にも男子がなく知行は没収された。

黒川氏十一代は、義康の甥である季氏が継ぎ、白石城(根白石)の白石氏と姻戚であったことから、根白石田中に母と隠棲していたが、結局家名を残すことはできずこの地でなくなり、黒川氏は断絶した。