宮城県利府町赤沼字放森

 

奥州白河藩の家臣、小針彦次郎の父が、富永弥太郎定勝なる者に、ささいな立身出世のために恨みをかい殺された。富永弥太郎は白河藩内にいられなくなり、弟の富永五郎七定重といっしょに、逃げてしまった。

小針彦次郎は、白河公のゆるしを得て、彼の家来孫兵衛と、その子嘉兵衛の二人をつれて、父の仇の富永弥太郎をさがすべく旅に出た。

江戸、北陸、出羽などで探しても見つからず、海を渡り、蝦夷の松前まで行っても手がかりはなかった。そこて、南部領にひきかえすと、仙台領にいることがわかった。

仙台領にきて探していると、偶然にも富永兄弟と赤沼の田んぼで出会った。そこで彦次郎は二人に「父の仇を討つ、覚悟しろ」といった。 お互いに名乗りあった後斬り合いが始まった。

お互いに隙を見て打ち込むこと数十合、ついに富永弥太郎は、土橋のくさった穴に足をとられ討ち取られた。富永五郎七も力尽きて討ち取られた。

父の仇を討った彦次郎もそのとき体に2箇所の怪我を負い、家来の孫兵衛は60歳の高齢で奮戦したが深手を負い死んでしまった。その後小針彦次郎は白河藩に戻り、200石で再び家臣に取り立てられ、刀を拝領したと言う。

この地蔵は、享保17年(1732)、討たれた富永弥太郎の姪にあたる富永道仙なる尼が、亡くなった叔父二人の冥福を祈るためにたてたもの。

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