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宮城県利府町利府字城内

震災前取材

別名:村岡城

この城は、現在の利府町中心部の北側、標高88mの丘陵上にある。留守氏の重臣であった村岡氏の館がおかれていたが、永禄12(1569)年に起きた留守氏の後継者問題で伊達系留守氏側と対立した。

留守氏は陸奥国留守職の家柄で岩切城を居城としていた。しかし岩切合戦で敗れ、一時は没落したが、大崎氏が大崎地方に入ると旧領を復された。

しかし戦国期になり大崎氏の力は弱まり、伊達の勢力が強くなると、次第に伊達よりになる。伊達持宗五男の郡宗、伊達尚宗次男の景宗など伊達家から度々養子を迎え、次第に伊達家に組み込まれていった。

政景は、留守家に本来の跡継がいるところ、伊達の力で安泰を図ろうとする勢力により1567年養子に迎えられ、1568年黒川晴氏の娘を妻に迎える。政景の入嗣に強く反対する村岡氏に対して、政景の岳父となった晴氏は政景と村岡氏との融和を計ったが、永禄2年(1559)村岡氏は村岡城にたてこもり政景に対し反旗をあげた。政景はこれを攻め、村岡氏は滅亡した。

その後、永禄13(1570)年に留守政景は岩切城からこの城に移り、地名を村岡から利府に改め、城名も利府城となった。

政景は入嗣当時は、留守家内部の反伊達勢力の抵抗にあいこれと戦った。そして叛乱を一掃した天正2年(1574)、米沢城下を訪れ兄輝宗の麾下に属した。以後、伊達氏と留守氏は緊密な関係のもとに周囲の情勢に対処することになったのである。

その後は伊達政宗の叔父として、伊達とともに多くの戦に参陣したが、天正19年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置に於いて、留守氏、国分氏らは、伊達家の家中とみなされ所領を没収されて伊達家臣団に組み込まれ、この地は伊達領となった。

このような政景に対して政宗の信頼も極めて厚く、政宗の治績を記した『貞山公治家記録』には、政宗と政景の親密さをうかがわせる記事が散見している。政景は居城を転々と移されたが、元和年間(1615~23)に一ノ関城主となり二万石を治めて余生を送った。子孫は伊達一門、水沢伊達氏として続いた。