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宮城県利府町赤沼字宮下

昔、仁寿年間(850頃)、摂政藤原良房の姫君が、わけあって世隠れの身となり身重の体で、はるばる旅枕を重ねてこの地にたどりつき、里人に一夜の宿を頼んだ。

しかし里人たちは身につけている衣装はきらびやかで、頭髪には宝冠が光っていて、あまりにも身分が高い様子に返事も出来なかったが、ある老夫婦のはからいで、近くの経塚のお堂にて一夜の宿を借りることになった。その晩急に産気づき、玉のような女の子を無事安産した。実は、この姫君は文徳天皇の后という身分で、この赤ん坊は清和天皇の妹君の儀子内親王だった。

その後里人たちの情けで、ささやかながらも雨露をしのげるような日当たりの良い処に草葺の仮屋を作ってもらった。里人達は、朝な夕な食物をみつぎ、おかげで赤ん坊はすくすくと育った。姫君は里人の深い愛情に心から感謝し、京で習い覚えた手芸、手習いの文字などを教え、そればかりでなく着物にする布の染め方などを里の若い娘たちに授けるようになった。それは、この山近くに野生する「刈安草」を材料として色々な色彩まで出すと言う全く女神のような姫君で、里の娘たちはみな喜んで教えを受けた。

やがて、二年も過ぎ、赤ん坊も一人歩きをするまでに育った頃、姫君は都へ帰るときとなり、はるかに京へ旅立った。その後姿を見送り、里人たちはみな涙を流したという。

里人達は、のちにこれらの事を振りかえり、あの姫君の教えは神様の教えであったと感激し、その御霊をこの地に祀ったのがこの染殿神社であると伝えられている。

この神社由来に出てくる文徳天皇の后は、藤原良房の娘の、染殿后明子(あきらけいこ)のことだろう。当時、文徳天皇には明子のほかにも寵愛する紀静子がおり、明子の産んだ惟仁(これひと)親王(後の清和天皇)と、紀静子の産んだ惟喬親王がおり、天皇は惟喬親王を皇太子にと望んでいた。

そのため、文徳天皇と、明子の父の藤原良房との間は険悪になっていたようだ。結局、惟仁親王が皇太子となり、後に清和天皇となる。文徳天皇は天安2年(858)、31歳で病没する。突然の病死であるため、藤原良房による毒殺とする説もある。