宮城県利府町加瀬字窪

 

墓碑は長い年月土中に没し、農家のわら叩き台となっていた。文政2年(1819)、倒れていた石が墓碑であったということが確認された。ちょうどこの年、伊沢家景の600年忌でもあり、子孫にあたる当時の水沢領主の留守村福(むらやす)が墓石を立て直した。

石碑の左右には一対の灯篭を配し、高さ1.8m、幅0.8mで、中央に「元祖加瀬寺殿故従四位左近将監瑞山雲公大居士」、右に「承久三年辛巳」、左に「十一月十三日」とある。

伊沢家景は藤原道長の兄にあたる道兼の五世の後裔と伝えられるが定かではない。家景は鎌倉武士とは違った公家あるいは文官型の人物であったらしい。北条時政の推薦によって文官として頼朝に仕え、大河兼任の乱後、陸奥国留守職に任ぜられて多賀国府に来住した。

家景が就任した留守職は、主として民政、財政を担当した役職で、陸奥の国内新地頭らへの国務上の命令権を有する重要な地位であった。留守職が家景の子孫に受け継がれるに及び、その指揮下にある官人らとの間に主従関係が結ばれるようになった。

地頭らも留守職にある家景の下知に従って国事を勤め、もしこれに従わないときは、頼朝の命を受けて留守職が処分することができた。この意味においては、留守職にある家景は一般の地頭御家人より上位の存在であり、葛西清重とともに奥州総奉行と呼ばれた。

家景の代は伊沢を号していたが、二代家元以降、職名を名字として留守を称した。留守惣領は多賀城国府周辺の「高用名」と呼ばれた地域の地頭で、初期の居城は、利府の加瀬あたりにあったと考証されている。

留守氏は陸奥国留守職として、陸奥一宮である塩竈神社の奉幣祭祀を勤め、塩竈神社の神主職でもあった。神社の神事勤行にまで強い支配力を有し、社領の少なからぬ部分が留守氏の有するところとなり、社官たちは「宮侍」として留守氏の家臣として掌握されるようになった。北は別府、西は岩切、南は高砂、東は塩竈にまたがる地域を支配した。

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